親とは縁を切った

辰巳と別れた美穂は、再びもとの地味な日常を送っていた。ビルのなかで顔を合わせてしまうのも気まずいと思ったので、会社にはそれとなく事情を伝えて担当するビルを変更してもらった。もともと現実感のない暮らしだったし、いざ離れてしまうと本当に夢だったのではないかとすら思えてしまうが、別れて1年近く経った今もカメラロールにまだ削除できないまま残っている何枚かの写真は夢のような時間が確かに現実だったことを美穂に教えてくれていた。

「お疲れ様でした」

仕事を終え、着替えを済ませ、ロッカールームで駄弁っている同僚たちに挨拶をして、職場を後にする。通用口から出ると、すぐ目の前の街路樹の前に見慣れた人の立ち姿が目に留まった。

「美穂」

最初は目を疑った美穂だったが、名前を呼ばれて疑念は消える。立っていたのは辰巳だった。

「どうしたの……?」

美穂は目を丸くしながら訊ねた。辰巳は真っ直ぐに美穂のことを見ていた。

「会社、辞めてきた。父さんとも縁を切った」

「はい?」

「だから、会社辞めて、家族とも縁を切ってきた」

「なんで……」

辛うじてそう声を絞り出せはしたものの、状況が全く理解できなかった。

「あれからずっと後悔してた。あのとき、何で美穂のこと呼び止められなかったんだろうって。父さんたちがどんどん結婚の話を進め始めて、このままでいいのかって何度も自問したんだ。そうしたら、このまま言いなりになる人生でいいのかって思えて、それで、去年の冬くらいかな、気がついたら父さんとめちゃくちゃ喧嘩してた」

辰巳は自嘲するように笑って肩を竦めた。

「探したんだ。美穂のこと。そしたら美穂の前の上司の人がこっそりここを教えてくれて。会いに来るまでに時間かかっちゃったけど、どうしてももう1度だけ会いたくて」

「今さら何なのよ……」

「ごめん。迷惑かもしれないって思ったんだ。それに、もうお金も地位も将来もなくなった俺が会いに行っても、美穂は喜ばないんじゃないかなって。でもやっぱりもう1度会い――」

気がついたら、美穂は手に持っていた鞄を辰巳に投げつけていた。

「ふざけないでよ。喜ばないわけないでしょ。嬉しいに決まってるでしょ」

視界の真ん中で立っている辰巳の姿があっという間に滲んでいった。輪郭はぼやけていたが、辰巳が狼狽えているのが分かった。

「でも俺、もう、美穂の借金も返してやれないし」

「馬鹿にしないでよ。そんなことのために、あなたのことが好きだったんじゃないよ。私は、ただ、ただ、結弦さんと一緒に過ごす時間が」

あとは言葉にならなかった。身体に力が入らなくなり、その場にしゃがみこもうとした美穂だったが、重力に引かれる身体を結弦が力強く抱き留めた。

「こんな俺でも、いいのかな?」

「何回も言わせないでよ。結弦さんがいいの」

あのとき、辰巳は借金を抱えていることなんて笑い飛ばすように美穂のことを受け入れてくれた。だから美穂も、辰巳の肩書や将来なんて関係なく、辰巳結弦という人間自身を好きになったのだ。

「……ありがとう」

耳元で辰巳の声が静かに聞こえた。

幸せはまだやはり現実感がなくて夢心地だ。けれどこの辰巳から伝わる温もりは、確かだった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。