晴れて自由の身になった娘
凛子が仕事を辞め、実家に戻ってきた。
さすがに1週間も音信不通でいた会社に出向いて退職を伝えるのは難しかったらしく、早苗は最近流行っているらしい退職代行を勧めた。いくつか業者はあったが、どこも費用はだいたい2~3万円程度で、もうトラウマになっている上司と顔を合わせる必要なく辞められるとのことだった。
便利な世の中だ。早苗の世代からすれば想像しがたいビジネスだったが、いざというときに自分を守ることができる手段が増えるのは素直にいいことだと思った。
「お母さん、おはよう」
昼前になって、パジャマ姿の凛子が1階へと下りてくる。退職の手続きが終わり、名実ともに自由の身になった凛子は少しずつだがもとの笑顔を取り戻しつつあった。
「おはよう。今日の小鉢はね、ほうれん草としらすの胡麻和え。凛子、好きだったでしょ」
「うん……懐かしいな」
食卓に料理を並べていく。白米に味噌汁に焼き魚と小鉢。きっと1人暮らしではなかなか食べられなかっただろう温かな朝食を前にして、凛子の表情が少し明るくなる。
いただきます、と噛みしめる用に両手を合わせたあと、味噌汁をひと口すすると、凛子はふわりと笑みを浮かべた。
「やっぱり、お母さんのごはんが一番だわ」
その言葉だけで、早苗の胸の奥がじんわり温かくなった。忙しかった日々、何も言わずに支えてくれた末っ子のこの笑顔を、早苗はどこかで当たり前に思ってしまっていたのかもしれない。
「実はね」と凛子がぽつりと口を開く。
「昔さ、兄ちゃんたちが騒いでる横で、私だけ店の手伝いしてたの覚えてる?」
「もちろんよ。凛子、小さいのに台拭きとか、よく頑張ってくれたわよね」
「うん。でもね、別に良い子ぶりたかったわけじゃないんだよ。ただ……」
凛子は少し照れくさそうにうつむいた。
「カウンターで、お母さんの料理を食べるのが好きだったの。お客さんみたいな気分で。ときどき、兄ちゃんたちには内緒ねって言いながら、小鉢くれたりして。あれが、すごく嬉しかった」
早苗は驚いて凛子の顔を見た。
「……そんなふうに思ってたの?」
「うん」
ふたりの間に流れる、静かで穏やかな時間。あのころとは違う、けれどどこか懐かしい温もりが、カウンター越しに漂っていた。
「私さ、お母さんの店、手伝ってもいいかな? 接客は無理だけど、仕込みとか、片付けとか」
凛子がふいにそんなことを言った。驚いたが、それは無理に前を向こうとしてるんじゃなく、ほんの少し、立ち上がろうとする心の表れのように思えた。
「いいよ。でも、その代わり、たくさん食べなさい。あんたの席は、いつだって空けてあるから」
凛子は目を細めて、また笑った。この笑顔を、もう二度と曇らせたくない。そう思いながら、早苗は娘のために、もう一度温かいお味噌汁をよそった。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。