会社辞めたっていいのよ
そのとき早苗は、ふとテレビで観た「五月病」のニュースを思い出した。新しい環境に適応できず、心や体に不調を抱える人が多いと神妙な顔でキャスターが話していた。
もちろん報道を見たときの早苗は、どこか他人事だった。自身がくよくよしない性格のため、「繊細な人は大変ね」くらいの感想しか持たなかった。
だが、今回のことでようやく気づかされた。しっかり者で親の手を煩わせることがほとんどなかった凛子。しかしどんなに強く見えても、たった1人で闘える人間なんていない。
「……ごめんね、凛子。もっと気にかけるべきだった」
早苗は娘の髪をなでながら、静かに語りかけた。
「凛子は、しっかりしてるから大丈夫。お兄ちゃんたちより、優秀なんだから心配いらないって勝手に思い込んでた。だけど、知らない土地で、知らない人たちに囲まれて、慣れない仕事をするんだから、平気なわけないよね。いっぱいいっぱいになって当然だよ」
「でも……たった1か月で限界が来るなんて情けないよ……」
「情けなくなんかない。凛子は十分に頑張ってきたし、むしろ、人一倍気を張って生きてきたんだよ。だからこそ、今こうやって倒れたんだと思う」
凛子はまた、ぽろぽろと涙をこぼした。さっきより少しだけ表情が和らいで見えたが、今にも張り裂けてしまいそうな危うさは変わらなかった。
「これからどうしよう……」
「会社、別に辞めたっていいのよ?」
「え……」
凛子が目を見開いた。
「仕事なんてね、身体と心を壊してまでするもんじゃないでしょう。もちろん踏ん張って頑張れるのだって、かっこいいことかもしれないけどね。むやみに進むんじゃなくて、自分を守るために引き返すのだって勇気がいる、立派なことだと思うのよ」
「そうかな……」
「そうよ。お父さんなんて新卒で入った会社、半月で辞めてるんだから」
「そうなの?」
「だから大丈夫。凛子の人生、まだまだ長いんだから、好きにしたらいいのよ」
しばらくの間、凛子は黙り込んでいたが、やがて緊張の糸が切れたように表情を緩めた。
「……なんか意外だった。お母さん、ガッツあるから、頑張れ負けるなとか言うと思った」
「そんなことないわよ。人生って、頑張り時とそうじゃないときってあるんだから」
早苗は凛子の髪を手櫛で整え立ち上がる。部屋のカーテンと窓を開けると、外は少し傾いた陽に照らされて、オレンジ色に染まっていた。埃っぽい空気に少しだけ新しい風が混じって、早苗たちの間をそっと通り抜けていく。