少しだけ言わせてください

重苦しい沈黙が会議室の換気の悪い空気をさらに淀ませていくなか、扉が控えめにノックされた。

「失礼します」

ドアの隙間から顔をのぞかせたのは、岡部だった。彼は少し緊張した様子で会議室のなかへと入り、泰司とアンヘル、本社社員の顔を順に見渡した。

「すみません、僕の立場で口を出すのはおかしいかもしれませんが……少しだけ言わせてください」

岡部の声は緊張で震えていたが、ぶれない芯のようなものを感じさせる響きがあった。それはおそらくこの場にいる人間のなかで泰司にしか気づけないほど些細なものだったが、確かにあった。

「僕たちがサポートすれば、アンヘルさんは休めますかね?」

予想していなかった問いかけに、泰司も本社社員も言葉を失った。

「さっき井上先生とも話してたんですけど、まるまる2週間は無理でも1週間くらいならアンヘルさんが休んでも、なんとかなるんじゃないかと思うんですよ。例えば水曜日と金曜日の低学年クラスは井上先生と僕で受け持ちますし、火曜日の上級クラスは、嫌がりそうだけど加藤先生に任せられるんじゃないかと思います。授業以外の事務作業は、チューターの北村くんも手伝ってくれると言っていました。アンヘルさんにとって、イースターが大切なのはわかります。一方で塾にとって4月が大事な時期なのも確かです。だから、どちらかが我慢するんじゃなくて、折り合いをつける方法があったらいいなと思ったんですけど、どうでしょうか……?」

岡部は一気に言葉を並べたあと、やはり自信のなさそうな顔で本社社員へと視線を送った。

「……確かに、そういう試行錯誤が本来の多文化共生なのかもしれませんね」

岡部の乱入により、話し合いは一気に進展し、アンヘルは4月20日の前後2日間の併せて5日の休暇を取得。休んだ分は欠勤扱いとしてその分だけの減給。彼女がいないあいだの業務は岡部の提案通りみんなで分担しながらこなすことになった。

4月半ばの塾は相変わらず忙しい。しかしそこにアンヘルの姿はない。だがそれでも塾はきちんと機能している。特に岡部の働きには目を見張るものがあった。

自分の業務だけで手一杯だったはずの岡部は、アンヘルの事務作業を一手に引き受けながら、チューターのアルバイトと協力しながらこなしている。

誰かがいなくても、チームで支え合えば何とかなることを、岡部が証明してくれていた。

泰司も彼の成長を実感していた。だが一方で思うこともある。

働き方改革や多文化共生というのは、ただ理想を掲げるだけでは意味がない。現場の状況とどう折り合いをつけるかが大事なのだ。アンヘルにとってイースターがどれほど大切なものか、泰司には最初わからなかった。

だが、日本の年度初めがどれだけ重要かを、彼女も十分理解していなかった。どちらが正しいかではなく、どうやって共存するか。その答えを見つけるのが、本当の「共生」なのだろう。

「塾長、明日の授業で配布する小テストと資料、こんな感じでやろうと思ってるんですけどどうでしょうか?」

岡部がプリントを手に、泰司のデスクにやってきた。彼の表情は以前よりも自信に満ちている。

「おう、見せてみろ」

泰司が目を通している間、岡部は静かに口を開いた。

「今回の件で、少しわかった気がします」

「何がだ?」

「僕は今まで、ただ目の前の仕事をこなすことしか考えていませんでした。でも、本当に大事なのは、組織全体でみんなの負担をどうやって分かち合うかなんですね」

「なに一丁前なこと言ってんだよ。テストも資料もよくできてるけど、まだまだ時間がかかりすぎだ。気合いいれてけよ」

泰司はプリントを岡部に返し、腰を軽く叩いた。

「はい!」

アンヘルのような溌剌とした返事でデスクに戻っていく岡部の後ろ姿は少しだけたくましくなったように見える。

アンヘルから塾のグループチャットにメッセージが届いたのはその日の夕方、小学生たちが集まり始める少し前のことだった。

「イースターを家族と過ごせて、本当に幸せです。みんなの協力に感謝しています。Thank You!」

泰司はスマホの画面を見つめながら、小さく息をついた。

「ったく、この年になってまだ教えられることがあるとはな」

ぼやくように呟いてから、泰司は子どもたちの待つ教室へと向かった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。