楽しまないと損よね

キャンパスに足を踏み入れたのは、桜の花びらが舞う春の日だった。

新しい教科書を抱えながら歩く若者たちが行き交う中で、冬美は丸まった背中を左右に揺らしながらゆっくりと歩いていた。

こんなに若い人たちの中に、自分が混じっていいのだろうかと、そんな思いが胸をよぎったが、目の前にそびえる校舎を見上げたときに不安は吹き飛んだ。これからは心の赴くまま、思う存分学べるのだと実感し、少しだけ自分の足取りが軽くなるのを感じた。

「せっかく入学したんだもの。楽しまないと損よね」

初めての講義室では、若者たちがすでに席を埋め、隣同士で楽しそうに話していた。冬美は後ろの方の隅にそっと座った。

講義が始まると、まだ40代に見える若い教授が流れるように話し始めた。文学の講義だ。古い小説を例に取りながら、時代背景や作家の心情を解説していく内容に、冬美はどんどん引き込まれていった。

「この部分、何か気づいたことがある人いますか?」

教授の質問に、学生たちがちらほらと手を挙げた。

その姿を見ながら、冬美はふと昔の自分を思い出していた。言いたいことはあるのに手を挙げる勇気が出せなかった学生時代の冬美。そして今、同じように手を挙げられない自分にがっかりしながらも、昔に戻った気分に思わず口元を綻ばせるのだった。

「鵜飼さん」

と、教授に声を掛けられたのは、授業のなかで短い小説を出す課題の講評が行われた講義のあとだった。

「この短編、とても素晴らしかったです。読んでいて心を打たれました。まだ粗さはありますが、情景と心情が溶け合うように重なって、唯一無二の感性が立ち上がっているように感じました。鵜飼さんさえよければ、この作品に少し手を加えて、文学賞に応募してみてはどうでしょうか」

突然の提案に、冬美は目を丸くして驚いた。むしろよく意味が分からなかった。文学賞なんて、自分には縁のないものだと思っていたからだ。

「いえ……そんな」

そう答えたが、教授はにっこりと笑いながら首を横に振った。

「挑戦するだけでも意味がありますよ。鵜飼さんにはそれだけの力があると思います」

その言葉は、冬美の中で小さな種を蒔いた。それがこれからどう芽吹くのかは、まだ分からない。ただ、挑戦すること自体が新しい自分を生むのではないか。そんな予感が胸の中に広がっていった。