夫が変わってしまったワケ
去年の秋ごろ、夫は部署異動で書籍編集からWebメディア運営に変わった。
ある程度の時間をかけて1冊の本を作り上げていくのと違い、Webはコンテンツの消費サイクルが異様に早く、まるで勝手が違うとよく家で嘆いていた。
大変なのは分かる。夫は書籍編集の仕事にやりがいを感じていたから、今回の人事が不服だったという気持ちもあったのだろう。
「まあ、大変かもだけどさ、疲れてるのに部署移動して辛いとか、そういう泣き言ばっかり聞かされるこっちの身にもなってよ」
「あ、うん、ごめん。気をつける」
「別にいいけどさ、やりたいことだけやるのが仕事じゃないんだし、ちょっと考えが甘いんじゃない?」
夫のことを思ったエールのつもりだった。だが、夫には突き放すように聞こえたのではないだろうか。
思えば、夫の様子はあのときから既におかしかったのかもしれない。それでも必死に、たとえば里沙に愚痴をこぼすことで、なんとかバランスを保っていた。それなのに、里沙は無碍に突き放し、夫からその機会を取り上げた。
もしかしたら、徹を追い詰めたのは自分かもしれない。そんな考えが脳裏をよぎった。そんなはずはないと否定しようとしても、その考えは脳裏にこびりついて離れなかった。
珍しく定時退社をして家に帰った里沙だったが、いつも寝そべっているリビングのソファに夫の姿はなかった。会社に行かなくなってから、いつも帰宅するとソファに寝転んでいたのに、どこに行ったのだろう。寝室やトイレ、浴室にもいない。夫に電話をかけてみたが、何度かけても出ない。
里沙は恐ろしいことを考えてしまった。まさか、いくらなんでもそんな思い切ったことはしないだろう。そう否定しながらも、心臓の鼓動が大きくなっていくのが自分でも分かった。
「里沙、おかえり」
背後からいきなり声をかけられ、里沙はあまりの驚きに腰を抜かしそうになった。振り返ると、そこにはコンビニのビニール袋を手にした夫が立っていた。
「ちょっと、どこに行ってたの?」
「どこって、今日はなんか少し気分がよくてさ、コンビニでジュース買ってきたの」
「電話したんだから出てよ」
「うわ、ほんとだ。ごめん全然気づかなかった」
スマホを確認して、徹は小さく笑った。そういえば、会社に行かなくなってから徹が笑ったのを初めて見た気がする。以前はよく笑う人だったのに。
徹が無事だったことに胸を撫でおろすと同時に、自分にとって本当に大切な存在なのだということを改めて自覚した。
「よかった……」
「なんかごめん」
安堵の息を吐く里沙に夫は謝った。里沙は首を横に振った。
「ううん。謝んなきゃいけないのは私のほう」
「なんで里沙が謝るのさ。謝るのは俺だよ。会社に行けなくなって情けないし、恥ずかしいし」
気がつくと、里沙は夫のことを抱きしめていた。夫は困惑しながら、まるで貴重なガラス細工を手に取るような優しさで、里沙の背中に腕を回した。
「ごめんなさい。私、徹の気持ち、全然考えられてなかった。ずっと戦ってたんだよね。苦しかったんだよね。独りにして、ごめん」
「どうしたの、急に」
見上げた夫は笑っていた。笑いながら、大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。
それから久しぶりに里沙と徹はしっかり話をした。里沙は心療内科に行くことを勧め、徹もそれを受け入れてくれた。心療内科に行って診断書を出してもらえれば、正式に会社を休職することもできるし、治療の糸口や病気との付き合い方も見つけられるだろう。
徹と話しながら、里沙は結婚したばかりの頃を思い出していた。あの頃、担当している病院の医師からクレームをつけられ、病院を出入り禁止になった。そんなとき、支えてくれたのは徹だった。夜中までビール片手に愚痴に付き合って、優しい言葉をかけてくれた。だから里沙は立ち直ることができた。
だから今度は、自分が徹を支える番だ。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。