夫の改姓を期に義母と距離ができて……

「立川の名前を捨てるってこと?」

入籍にあたり、冬馬が山崎姓を名乗ることを報告したときの空気の冷たさを、真名美は今でも忘れられない。

真名美が外国にルーツを持つことは、すんなりと受け入れてくれた義両親だったが、1人息子が改姓するとなると話は別のようだった。特に義母の真紀は、露骨に反対した。

「立川家の男子は冬馬だけなのよ。名前が途絶えるなんて納得できない」

「まあまあ、落ち着いて。とにかく理由を聞こうじゃないか」

義父・元也からのフォローを受けて、真名美は必死に理由を説明した。

自分がフランス文学を専門に研究し、これまで発表してきた論文の実績がすべて「山崎真名美」という名前に紐づいていること。苗字ひとつで、これまでのキャリアが台無しになりかねなかった。

「ですから、冬馬さんの方に苗字を変えてもらいたいと……」

義父の元也は、最初こそ驚いたものの、「2人が納得して決めたことなら」と微笑んでくれた。けれど、義母の反応は違う。

「真名美さんの事情は分かるけれど、だからって、冬馬が立川の名前を名乗れないというのは……どうなのかしら……ねえ?」

その言葉には明らかに真名美に対する棘があった。真名美は何度も「すいません」とくり返すが、何に対して謝っているのかは分からなかった。

「これは僕から提案したことなんだよ、母さん」

重苦しい空気を破ったのは冬馬だった。彼の穏やかな口調には、迷いが一切ない。

「結婚は2人が幸せになるためのものだろう? 僕にとっては、これが最善の選択なんだ。だから、母さんたちにもそれを認めてほしいと思ってる。それに苗字が変わったって、立川家を捨てるわけじゃないよ」

そのときの感謝は今でも忘れられない。でも、真名美にとって自分の苗字がキャリアと直結する重みを持っていたように、嫁いできた立川の姓もまた義母にとって重いものだったのだろう。

それ以来、義母との関係には微妙な距離がある。表面上は穏やかな会話をしても、その裏には常に何かが漂っている気がしてならない。

「どうした?」

ふいに冬馬の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼が湯呑みを持ってリビングに立っていた。

「ううん、何でもないよ」

無理に笑顔を作りながら答えたそのとき、玄関のドアベルが鳴った。