<前編のあらすじ>
定年間近となった春樹(65歳)の妻・百合子(62歳)が資格の勉強を始めた。そのことを部下に話すと、熟年離婚の準備じゃないですか? と言われる。
部下の言う通り、夫婦の会話がなく、子供が自立して、家事育児は任せきりだった春樹たち夫婦は、熟年離婚の兆候と言われるものに全て当てはまっていた。
不安を感じた春樹はもうすぐ結婚記念日であることを思い出し、いつもより高いワインとケーキと、プロポーズのときに贈ったポインセチアを用意し、これまでのことを謝罪する。その時、妻・百合子が語りだした――。
●前編:「典型的な熟年離婚の兆候ですね」離婚されたくない定年間近の夫がとった「後悔しないための行動」とは?
百合子の本心
いきなり真剣な面持ちで謝ってきた春樹の姿を見ながら、百合子は内心おかしさを抑えきれなかった。
結婚記念日を何年も忘れ続けていた人間が、急にこんなことをするなんて。
「どういう風の吹き回し? あなた、まさか何か悪いことでもしたの?」
真面目一徹な春樹に、そんな大それたまねができるはずないと知りながらも、百合子は意地悪く質問した。明らかに普段と違う夫の反応が面白そうだったからだ。案の定、春樹は目に見えて焦りながら否定した。
「なんでそうなる……! 俺はただ……」
「ただ?」
百合子は思わず緩んだ口元を隠すようにワイングラスを手に取った。
春樹はしばらく視線をそらして下を向いたあと、意を決したように顔を上げた。
「最近お前、急に資格の勉強なんて始めただろう?……だから俺、てっきり……」
「何?」
百合子は、わざと不機嫌さを装い、眉をひそめて続きを促した。
「その……離婚の準備でもしてるんじゃないかって思ったんだ」
消え入るような声で言いながら、春樹は妙に情けない表情で百合子を見ていた。百合子は思わず吹き出しそうになるのを飲み込んでほほ笑む。
「なるほどねえ」
あらかた、部下か誰かに言われたのだろう。かわいがっていた太田さんあたりだろうか。百合子は心のなかで、その部下に拍手を送る。
もちろん、資格の勉強を始めたのには理由がある。だが、何も春樹と離婚しようと考えていたわけではない。
来春には春樹が定年退職を迎え、年金生活になることを見据えてのことだった。
以前に年金受給額のシミュレーションをしてみたところ、百合子たちが受け取れる年金は夫婦合わせても月20万円ほど。対して、ゆとりある老後生活を送るには、月平均37万9000円の生活費が必要らしい。春樹の退職金や夫婦の積み立てがあるとはいえ、収入源が年金だけでは心もとない。いざというときに資格があれば家計を手助けすることもできるだろう。
何より、2人ともこの先何があるか分からない年齢だ。介護が必要になったとき、資格の知識は確実に役立つだろうと思った。
「ところで……」百合子は改めて春樹を見やった。 「仮に私が離婚を考えていたとして、謝罪すればそれで済むと思ったの?」
「いや……その……」
春樹はあたふたと視線をさまよわせた。
「俺はただ、本当に悪かったと思ったから謝っただけで……」
「悪かったって具体的には?」
春樹は百合子の顔色をうかがいながら慎重に答えた。
「例えば……俺が家事とか育児とか、手伝わなかったことだとか……」
「そうね、あなたは全然手伝わなかったわね。それに、子どもたちの運動会も参観日も『仕事だ』って言って来なかったこと、覚えてる? 家族旅行だって、ほとんど連れて行ってくれたことないしね」
「うっ……」
春樹が口ごもるのを見て、百合子は小さく笑い、ちらりとポインセチアに目を向けた。
「でもまあ、自分から結婚記念日に気付いたのは驚いたけどね」
春樹は深く息を吐き出したが、その様子もまた百合子にはおかしくて仕方がなかった。 もう少しこのまま誤解させておこう。
その晩、百合子は久しぶりにほろ酔いになるまで飲み、春樹が買ってきたワインのボトルを空けた。