最愛の夫にも先立たれ
「だ、誰だ⁉ 人さまの家に勝手に入ってくるんじゃない! け、警察呼ぶぞ!」
家に帰ったひかりがリビングへ向かうと、烈火のごとき怒声が飛んでくる。鬼の形相でひかりをにらみ付ける母・良子の姿に、慣れているとはいえ思わず身がすくんでしまう。
ひかりは現在、母と2人で暮らしていた。
母は数年前から認知症を患っており、だいぶ足腰も弱くなっていた。階段の上り下りやトイレ、お風呂はもちろん、つえなしでは歩くことすらおぼつかないため、家のなかのちょっとした移動であってもひかりの介護が必要だった。
しかも介護はほとんどワンオペだ。パート中は訪問介護士が来てくれることもあるが、ひかりの生活は、ただただ疲弊するばかりだった。
かつてはひかりにとっての理解者であり、心の支えだった母は、今やその影も形もない。ひかりを見ても誰だか分からなくなることが増え、こうして誰だと声を荒らげられてしまうことも少なくなかった。
「ひかりさん、お疲れさまです。お母さん、今日はちょっとご機嫌が悪いみたいですね。でも、もうすぐ落ち着かれると思いますよ」
「どうもすみません。いつもありがとうございます……」
キッチンで洗い物をしてくれていた介護士がひかりに声をかけ、荒ぶる母をなだめに向かう。彼女のように親切な人がいることは救いだったが、これではどちらが娘か分からなかった。
今日の出来事など、いくつかの伝達事項をひかりに伝えた介護士が帰ると、ひかりは1人で家事をこなしながら、不審そうに自分を見つめる母の世話をする。人がいれば罵声を浴びせられても、顔を忘れられても、何でもない顔でやり過ごすことができる。しかし1人きりになってしまえば、不信感みなぎる視線1つでさえもひかりの心を深く傷つけるナイフになった。
冷蔵庫の作り置きを活用しつつ、夕食を完成させたころには、すでに窓の外は暗くなっていた。
「母さん、そろそろ晩御飯にしよう。今日のおかずはサケ大根だよ」
「嫌だ。私は食べないよ」
暗い気分を振り払うように、なるべく明るく声をかけたが、母の反応は芳しくない。介護士が言っていた通り、今日は機嫌が悪い日なのだろう。
「そんなこと言わないで一緒に食べよう。母さん、大根好きだったでしょう?」
「ばか言うんじゃない。私は大根なんて嫌いだよ。そんなもの食べたくない」
まるで子供のように駄々をこねる母。ひかりには理由も理屈も分からない。その後も食べる食べないのやり取りが延々続き、結局母は夕食を取らずにふて寝してしまった。
きっと母は今日も夜中に腹が減ったと起きてきて、ひかりをたたき起こすのだろう。
1人で食べるサケ大根はほんの少ししょっぱい。沈黙に耐えられずにつけたテレビでは、バラエティー番組の陽気な笑い声が響く。仏壇では父と夫が並んで笑っていた。