母に投げつてしまった「あり得ない言葉」

みやびが結婚や出産に前向きになれないのは、身を粉にしながら女手ひとつでみやびを育てた母の苦労を間近で見ていたからだ。

父はみやびが生まれてすぐに借金を残して蒸発したらしく、みやびは顔も知らない。母はいつも朝早くから夜遅くまで働いていた。

みやびが学校に行く時間には、母はすでに仕事に出掛けており、夕方に帰ってきて家事を片づけると、また夜勤の仕事に出掛けていった。学校から帰ってくるタイミングが重なれば、母の顔を見ることができたが、作り置かれた夕飯だけがみやびを出迎えることも多かった。

寂しかった。しかしそれ以上に、必死に働き続ける母の疲れた顔を見るたびに、みやびは胸が痛んだ。どうしてそこまでして、私の面倒なんて見るのかと、苦しく思った。もしかすると母は、みやびを産んだことを後悔しているのではないかとすら思った。

今でこそ373万円まで上がっているらしいが、私が子供だったころ、母子家庭の平均収入は200万円を多少超える程度だったそうだ。ダブルワークだった母はそれ以上に稼いでいたような気もするが、父の残した借金を返せば手元に残るお金なんてほとんどなかったのだろう。母とみやびの生活は決して裕福なものではなかった。

日々すり減っていく母を見ていた。私は学校で使う鉛筆も消しゴムも、最後の最後までみみっちく使い続けた。新しいの買ってあげるという母の言葉を断ったのは、もちろんお金がないんだろうと分かった上での子供ながらの気遣いでもあったが、鉛筆のように短く不格好で、消しゴムのように少しずつ小さく黒ずんでいく母を見ていたからだと今だから思う。

そんな毎日が続いて、みやびが18歳のとき、母はとうとう過労とストレスでリウマチになった。3カ月後に受験を控えた晩夏のころのことだった。

そのとき、自分が母に投げつけた言葉を、みやびは今でも一言一句違わずに思い出すことができる。

「大事なときに何してくれてんのよ! 本当に迷惑なんだけど! 病気になるまで働けなんて誰がいつ頼んだのよ!」

今考えてみればちゃんちゃらおかしなせりふだ。母が汗水垂らして稼いだお金でご飯を食べ、洋服を買ってもらって育った。東京の大学に行けたのだって母が稼いだお金があってこそだ。みやびが頼まなくても、母は何も言わず与え続けてくれていた。

しかしその日以来なんとなく気まずくなってしまった母との関係は、今もうまく修復できないままだった。25歳を過ぎたあたりから、実家に帰る足すらも遠のいていた。

※厚生労働省発表「令和3年度全国ひとり親世帯等調査結果」より。児童手当や養育費などを含んだ金額の平均