夢中になれる事
それから毎朝のウオーキングは2人の日課になった。
良かったのは運動不足が解消されたことだけではない。退職以来だんまりだった勇の口数が増え、2人のあいだに会話が増えたのだ。勇もすっかり仕事をなくしたショックからは立ち直ったように見え、以前よりも元気になった。
いつものように7時半に家を出て、運動公園を3周した後、ベンチに座って水分補給をする。
「なあ、単にウオーキングをしているだけじゃつまらなくないか?」
「え、どうしたの急に?」
「何か目標があったほうがいい。そうだな、たとえば、フルマラソンに出てみないか?」
愛子は思わず顔をしかめた。
「なにばかなこと言ってるの。せっかく長生きのために始めた運動なのに、そんなことしたら寿命がうんと縮んじゃうよ」
「俺たちよりも年配で走ってる人はたくさんいるよ。俺たちだってできるはずだし、目標は高い方がいいだろ」
キラキラと目を輝かせる勇を見て愛子は肩をすくめた。
「あきれた……。あなたって、何でもそうやって一生懸命やらないと気が済まないのね?」
「どうだ?」
「まあ、目標目標って言うだけはタダだからねぇ……」
「よし、それじゃ、今日は帰りをジョギングにしよう。そうやってちょっとずつ走れる距離を長くしていけば、42キロくらいは走れるようになるはずだ」
そう言うと勇は軽い足取りで走りだす。慌てて、愛子はその後を追った。
仕事中毒なんてばかにして言ってたけど、この人の場合は「夢中」だ。夢中になることが必要なんだ。
「ほら、愛子、ガンバレ」
「はいはい、頑張ってますよ」
すぐに息が乱れる。しかし嫌な気分ではない。心地よい拍動が左胸をたたいていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。