抜け殻のような日々

それからというもの、退院と退職をした勇は抜け殻のように自宅でぼんやりと過ごすようになってしまった。購読していた経済新聞も読まなくなり、もともと多くはなかった口数も極端に減った。それでもハローワークに行ったり、求人情報誌を読んだりしていたから、退職直後はまだ前向きな気持ちも多少はあったように思う。しかし多くの仕事が年齢制限の壁を越えられないと知って、少しずつ失望が大きくなっているのが目に見えて分かった。自分はもう社会に求められていないと痛いほどに思い知ってしまったのだろう。

「ねえ、あなた、毎日そこで過ごしてても退屈でしょ? 何かやりたいこととかないの?」

「……そんなものはないよ」

無気力な返事に愛子は焦燥感を募らせる。

「何でもいいのよ。旅行とか。ほら、ゴルフとかもお付き合いでやってたじゃない。グラブとか、物置でほこりかぶってるんだし、久しぶりに出してみたら?」

「いや、いいよ。付き合いでやってただけだから」

「病院の先生がおっしゃってたんだけどね、脳梗塞って再発しやすい病気なんですって。だからその予防をすることが大事って言ってたのよ。動脈硬化を防ぐためには運動が良いっておっしゃってたから、一緒に散歩でもしましょうよ。ずっと座って動かないんじゃ身体にコケが生えちゃうわよ」

「そうかもな……」

なんとか気分を盛り立てようと愛子が言葉を尽くしても、勇は覇気のない表情で返事するだけ。さすがの愛子もだんだんといら立ってくる。

「もう、しっかりしなさいよ。いつまでそうしてるつもりなの」

愛子は語気を強め、あらかじめ買っておいた新しいジャージを勇に押し付けた。

「いい? 明日、朝起きたらまずこれに着替えること。7時半に、ウオーキングに出掛けますからね。拒否はできません。分かった?」

勇は「ああ」と「いや」のちょうどあいだくらいの、曖昧な返事をした。

しかし、やれと言われればきちんとやるのは勇の性分で、翌朝身支度を終えた愛子がリビングに向かうと、勇は所在なさげに椅子に座って待っていた。

真新しいジャージを着た勇は、不満そうに、あるいは気恥ずかしそうに口を開く。

「ジャージなら家にあるんだから、わざわざ買わなくてもなぁ」

「ダメよ。せっかく始めるんだから、カッコいい格好をしたほうが、気分がいいでしょ?」

「いや、まあ、どうだろう……?」

「いつまでも小さいことにこだわってないで、行きますよ」

愛子は無理やり話を終わらせて、玄関へ向かう。

「近くに運動公園があるから、今日はそこを一周して戻ってきましょうか?」

「ああ、分かった」

淡泊な返事だったが、勇は靴を履くや足のストレッチをしていた。案外乗り気なのかもしれない。2人は並んでただ歩いた。腕を上げるといった正しいフォームがあるらしいが、そんなことは今は気にしない。

思えば移動は車やバスがほとんどで、愛子も運動をするのは久しぶりだった。案の定、すぐに足が疲れてしまい、運動公園に着くと、早々に愛子はベンチに座り込んだ。勇も少しだけ汗がにじんでいるが、毎日働きに出ていただけあって体力に分があるのか、まだ疲れはそれほどでもなさそうだった。

軽くタオルで額の汗を拭きながら、愛子は明らかに勇の表情が生き生きしているのを感じていた。勇の見据える先の芝生では、朝早いというのに小さな子供たちがサッカーボールを元気に追いかけていた。

「昔、俺はサッカーをしていたんだ」

「え? そうだったの?」

知り合って初めて知った事実だ。

「マラドーナ全盛の時代でな、憧れてよくまねをしていた」

「へえ、知らなかった。そう言えばサッカーの試合、よく見てたもんね」

「ああ、下手くそだからやるのはうんざりだが、見るのは好きだな」

勇が自分のことをこうして話すのは珍しいことだった。

「じゃあ、今度一緒にサッカーの試合を見に行こうよ。スタジアムで見るともっと楽しいんじゃない?」

愛子の提案に勇はわずかに口角を上げた。

「そうだな。そんなことができるようになったんだな」

「そうよ。のんびり楽しく過ごしましょうよ」

勇はようやく、ほんの少しだけ退職したことをポジティブに捉えることができたのかもしれない。歩いた分だけ血色のよくなった夫の横顔は、そんな風に見えた。