<前編のあらすじ>

愛子(56歳)は、出産した娘が孫を連れて泊まりにきた事が嬉しくて仕方なかった。こんな大切な日に、孫の祖父でもある夫の勇(58歳)の姿はない。仕事人間の勇は連絡もよこさないまま残業で夜遅くに帰ってきた。

寝ている孫を絶対に起こさないようにとくぎを刺されたので、勇は寝ている亮介の姿をじっと見ていた。ベビーベッドの前から動こうとしない勇からは、孫への愛情が伝わってきた。

翌日、愛子が娘を家の前で見送ってから部屋に戻ると、リビングに勇の姿がない。首をかしげながら「お父さん?」と呼びかけるも声は返ってこず、キッチンをのぞき込むと、うつぶせになって倒れている勇の姿があった。

●前編:初孫より仕事を優先…仕事人間の50代夫を突然襲った「予想だにしなかった苦境」

脳梗塞を発症してしまった夫

勇は救急病院に搬送された。病名は脳梗塞。しかし迅速な対応の結果、命に別状はなく、後遺症なども残らないという話だった。とはいえ、経過観察のためにしばらくは入院になるとのことだったので、1度家に帰った愛子は翌日になって着替えなどを届けに再び病院を訪れていた。

「どう、調子は?」

「ん、もう普通だよ。早く退院したいな」

「まだダメよ。お医者さんの言うことをちゃんと聞いてよね」

「でも会社が心配だ」

こんなときまで仕事か……、と愛子はあきれた。しかし仕方がないのだろう。勇の人生は仕事とともにあるのだ。

「早く復帰できるといいわね」

「ああ、1日でも早く戻らないとな」

それから何日かして退院のめどがついたころ、勇の勤勉さを証明するように、病室に勇の上司だという男がやってきた。四十がらみの男で、きっちりと分けられた白髪交じりの七三は、エリートという表現がぴったりな印象だった。

「初めまして、部長の横下と言います」

「は、初めまして」

横下は勇に目を向ける。

「お加減はどうですか?」

「もうすっかりいいですよ」

「そうですか」

あいさつもそこそこに、愛子は病室を出た。仕事の話ならば、自分はいないほうがいいだろうと判断した。愛子は時間つぶしを兼ねて日用品の買い物に出掛けた。1時間くらい外出し、勇が好きそうな本や雑誌をいくつか買って病室に戻った頃にはもう横下の姿はなかった。

勇は窓の外に目を向けている。簡易テーブルの上には茶封筒と資料が置かれている。

「部長さんはもう帰られたの?」

「……ああ、とっくに帰ったよ」

勇の言葉には棘があった。こんな言い方をするのは珍しい。口数は少ないが、誰かの悪口を言うこともなく、穏やかなのが取りえだった。

「仕事の話だったんでしょう? 何だって?」

「……辞めてほしいらしい」

本を取り出す手が止まる。聞き間違いかと思った。顔を上げてテーブルを見ると、置いてある資料が早期退職者支援制度のものだと分かった。

「これ以上仕事をして、また再発したら危ないからって言ってたよ」

「どうするの……?」

「辞めるしかないだろ。これ以上会社に迷惑をかけるわけにはいかないからな」

進退がかかっているときでも会社のことを思いやれる人。ただこのときばかりは退職という判断をせざるを得ないということが悔しくてたまらなかった。毎日身を粉にして仕事だけ頑張ってきたのに、定年を迎えられずクビを宣告されるなんてあんまりだ。今すぐ電話して、あのエリートに一言言ってやりたい気持ちだったが、勇が望んでないことは分かったから、愛子には口をつぐむしかなかった。