時計の針は19時30分を回ろうとしている。秒針が時を刻む何倍もの速さで、薫の心臓は脈打つ。急がなければと焦れば、当然のように手元が狂う。

「いたっ」

薫の人さし指から真っ赤な血があふれだす。指先を伝った赤い滴は滴り落ちて、キャベツの薄緑を赤く濁らせる。薫は急いで手を洗い、玄関横の収納棚にある救急箱を取りにいく。ばんそうこうを手に取った瞬間、玄関の鍵が開く音がして、薫の胸を握りつぶす。

「お帰りなさい」

表情をつくって玄関を見ると、スーツ姿の夫・新吾が立っている。

「何やってんの?」

「ちょっと、包丁で指切っちゃって」

「じゃあ飯はまだってこと?」

「ごめんなさい。急ぐからちょっと待ってて」

薫が言うと、新吾は露骨に舌打ちをする。

「買い物に行ったら、渋滞に巻き込まれちゃったんだよね……」

「腹減ったなぁ」

新吾は鋭利なつぶやきを吐き出して、革靴を無造作に脱ぎ捨て、二階の寝室に向かっていった。

薫は新吾の姿が見えなくなって、胸の前で重ねた両手を握り締める。22歳のときに新吾と結婚し、今年で13年目になる。2人の娘を出産し、最近は小じわが増えたように感じる。子育てと家事に忙殺されるなか、美容院やメイクやネイルなど、若いころに精を出していた美容にかける熱意は冷め、アラフォーと呼ばれる年になった今、年相応に老け込んだように思う。

もちろん変わったのは薫だけではない。入社1年目から父親になる重圧のなか懸命に働いてきた新吾もまた、昔に比べて随分と額は広くなり、40歳前だというのに白髪が目立つ。

だからきっと、結婚したときのような幸せは続かない。夫婦というのはきっと、結婚して数年の幸せだったときの貯金を食いつぶしながら、いろんなことを諦めながら続けていくものなのだ。

「……大丈夫?」

ひっくり返った新吾の革靴をそろえていると、二階に続く階段から長女の美緒が薫をのぞき込んでいた。心配そうな娘の表情に、薫は笑顔をつくって返事をする。

「うん、大丈夫だよ。もうすぐごはんできるから。それまでに宿題を終わらせておいて。実里にもそう言って」

「うん、分かった」

自分の部屋に引き上げていった美緒を見送り、薫は気持ちを奮い立たせる。

ダメダメ。娘に心配させてどうする。

美緒は来年、中学生になる。もういろいろなことに気付く年頃なのだから、気をつけないといけない。

薫はエプロン越しの太ももをたたいて、キッチンへと戻った。