崩れ落ちた夫
半年後、あの日の決意が花開くときを迎えようとしていた。
その日は休日で、美緒と実里には前もって近所の公園で遊んでいるように言いつけてある。家のなかには薫と新吾の2人だけだ。深く息を吐いた薫は、ソファに腰かけながらテレビでゴルフ中継を見ている新吾の視線を遮るように立った。
「どうしたの? 邪魔なんだけど」
「ちょっと話があるの」
新吾は不愉快そうにため息を吐く。きっと以前ならば足がすくんだだろう。しかしあの日、大切な娘たちが流した涙を思えば、こんなものは怖くもなんともなかった。
「大事な話だから」
そう言って薫はテレビを消した。薫が見せた予想外の強行に、新吾は眉をひそめた。
「これにサインしてほしいの」
「……はぁ? 何言ってんの?」
差し出された離婚届に新吾は目を見開く。素早く向けられた新吾の目は、薫が予想していた通り侮るような色を宿している。
「限界なの。もう新吾とは生活を続けていけない。だから離婚してください」
真っすぐに見据えた視線の先で、新吾はこみ上げる笑いを堪えていた。
「いやいやいや、薫はそんなこと言える立場じゃないでしょ? 生活できないでしょ? 離婚したいならすればいいよ。だけど、美緒と実里のことはどうすんの? 娘捨てて、それで母親って言えんの?」
「美緒と実里はもちろん連れてく。3人で新しい生活を始めるの」
高圧的な新吾の視線に押しつぶされそうになる。薫はゆっくり息を吸う。吐く。もう決めたことだった。そのために、この半年間、必死で準備をしてきたのだから。
「いや、だからさ、薫じゃ育てらんないでしょ? 仕事どうすんの?」
「大丈夫。4月から看護学校に通うから。そこで看護師の資格を取って、病院で働く。それなら、美緒たちのことだってちゃんと養える」
「あのさ、看護学校って、誰でも通えるところじゃないんだよ。薫は世間知らずだから知らないかもしれないけどさ。ちゃんと受験をして、合格した人だけが通える――」
「もちろん。受験して合格したから」
薫が事もなげに言うと、新吾は目を丸くする。薫は合格証書見る? と挑発するように追い打ちをかける。
「この半年、ずっと勉強をしていたの」
「……なにそれ。家事をサボりながら、勉強していたわけだ」
「どうせ気付かなかったでしょ? だったら何も言われる筋合いはないよ」
薫はきっぱりと伝えた。高圧的で余裕ぶっていた新吾の表情にも、少しずつ焦りが見え始めていた。
「……金はどうするんだよ? 看護学校だってタダじゃないだろ。入学金は? 学費は?」
「入学金とかいろいろ合わせると初年度は105万くらいかな。3年間でざっと300万くらいかかる感じ」
「そんな金、薫には用意できないだろ?」
「私ひとりじゃ無理だけど、支援してくれる制度だってあるから」
新吾は何かを言い返そうとして口を開き、言葉に詰まる。その一瞬の隙を見逃さず
「自治体が奨学金を貸してくれるのよ。申請をして、毎月5万円を借りることができた。さらにね、専門実践教育訓練給付制度っていうのがあって、給付の条件はあるけど、これを使えば、学費の半分を支給してくれるの。もちろんタダってわけにはいかないけど、この2つを使えば、学費の負担はかなり軽減されるわ」
薫はこの半年間、勉強の合間を縫って、この奨学制度などを詳しく調べていた。新吾の支配から自由になるため、自分と、そして何より2人の娘の幸せのため、ずっと動き続けてきた。
新吾は頭を抱えるように髪をかいていた。
「薫はそれでいいかもしれないよ? 俺が言ってるのは、お前が学校に行ってる間の、美緒たちの生活だから! 3年も通うんだろ⁉ そしたら、美緒はもう高校受験だぞ! どうするつもりなんだよ」
薫は当たり前のようにうなずく。
「ちゃんと考えてる。養育費も払ってもらうし、財産分与だってしてもらう。それでお金が足りないっていうなら、慰謝料だって請求する。家族を守るためなら、私は何だってする」
薫の言葉に新吾は立ち上がる。ついさっきまで新吾を満たしていた余裕は跡形もなく消え去っていて、あれほど抑圧的だった夫の姿は今やもう群れからはぐれてしまった草食動物のように頼りなかった。
「はぁ⁉ お前、慰謝料まで取るって言うのか⁉ お前が勝手に離婚を言い出したんだろ! それでなんで俺が慰謝料なんて払わないといけないんだよ⁉」
「そんなの決まってるじゃん。散々罵声浴びせといて、立派なモラハラだよ」
「いやいや、何の証拠があるん――」
薫はスマホを取り出して、レコーダーを止めた。データ一覧にはこの半年、理不尽な言葉の暴力を受けるたびに記録し続けた100本近いデータがたまっていた。
「ふざけんなよ……!」
素早く動いた新吾は薫の手からスマホを取り上げる。薫が抵抗する間もなく、データはあっという間にすべて消される。
「無駄だよ。全部、バックアップ取ってあるから」
新吾は諦めたように肩を落とし、ソファの上に崩れ落ちる。
「本当にいいんだな? あとで、あとになって後悔したって、俺は知らないからな」
薫は新吾の手からスマホを取り返し、柔らかにほほ笑んでみせた。
「もちろん。後悔なんてしない。私は私たちが幸せになるのを諦めたりしないから」