割れたマグカップ
「いつ仕事辞めるの?」
リビングのソファでくつろいでいた隆平がふとこぼした言葉に、小枝子は耳を疑った。洗い途中のお皿を、思わず落としそうになる。
「何言ってるの? 辞めないよ。結婚前にもその話はしたじゃん」
結婚したら妻には家にいてほしいというのが隆平の考えであることは小枝子も知っている。しかし小枝子も仕事は好きだった。隆平に比べればごく小さい会社で給料もそれほど高くはなかったが、大学卒業からずっと勤めていた思い入れのある仕事だった。もちろん小枝子も出産や子育てのことは考えているから、妊娠したらそのときは――という話し合いをしたはずだ。
「でもやっぱり俺は、小枝子には家にいてほしいんだよね。職場って言っても、男だっているわけだし」
「おかしなこと言わないでよ」
小枝子は笑顔で返したが、内心では傷ついていた。浮気なんてするはずがない。隆平こそ運命の相手だと、そう思ったから結婚したのだ。
「でも帰りも遅いしさ。お金だって俺の給料があれば十分なはずだろう? それなのにそうやって仕事に固執されると、疑いたくもなるだろ」
「抱えてる仕事もあるし、そんなに大きくない会社だから、簡単に辞めたりするのが難しいだけだよ。それに、隆平さんの会社にだって女の子はたくさんいるでしょ?」
冗談を言い返したつもりだった。しかし隆平の表情があからさまに曇る。
「は? なに? 俺のこと疑ってるの?」
「違う、そういうわけじゃ――」
鳴り響いた大きな物音に、小枝子は一瞬何が起きたのか分からなかった。
ソファの前のテーブルが斜めにずれていた。カーペットが巻き込まれてゆがんでいた。上に置いてあった花瓶やマグカップが倒れ、中身があっという間に広がっていく。隆平が蹴ったのだと遅れて理解した小枝子は、洗い物をいったん止めて片づけに向かう。
「冗談なんだから、そんなに怒らないでよ」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ?」
先に言ったのはそっちじゃないか。キッチンペーパーでコーヒーを噴きながら、そういう非難を込めて隆平を見た。
「なんだよ、その目は」
瞬間、視界が真っ暗になった。頰が熱かった。気がついたときには小枝子は床に倒れていた。隆平の足音が近づいてきて、身体を起こそうとする間もなく髪の毛をつかまれた。
「ばかにしてんじゃねえよっ!」
隆平の怒声がリビングに響く。小枝子の視線の先にある、おそろいで買った隆平のマグカップは倒れた拍子に割れていた。
●突然「DV夫」の本性をあらわした隆平に対して小枝子は……。 後編【“占い師のお告げどおりに…” DV夫の暴力に耐え続ける妻を救ったアイテムとは?】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。