高橋佳奈(28歳)は、途方に暮れていた。夫の貴広(31歳)が自宅に帰ってこなかったからだ。先週も貴広は外泊したが、その時は、真夜中に、「今日は遅くなる」と連絡があった。翌日、帰宅した貴広から連絡が取れなくても心配するなと言われたが、外泊した理由については何の説明もなかった。そしてその日、いつも帰宅する時間が過ぎても何の連絡もなく、10時ごろから何度か携帯に連絡を入れたものの、一言の返信もなかった。先週、連絡がなくとも心配するなといわれたところだが、「もし、事故にでもあっていたら」と考えると眠ることもできずに一晩を過ごした。2週連続で夫が無断で外泊し、佳奈は心が壊れそうになった。いったい、貴広に何が起きているのか佳奈には想像もできなかった。しかし、その時の佳奈の焦燥は、その後に待ち受ける地獄のような日々に比べれば、取るに足りないほどの心の揺らぎに過ぎなかった……。

会社のマドンナとチヤホヤされたつかの間

佳奈と貴広が結婚したのは1年前だ。2人の出会いは職場だった。佳奈は精密機械メーカーに勤め、総合企画部に配属されて社内広報の仕事をしていた。社内報の「期待の若手」というコーナーで、法人営業部の主任だった貴広に取材した時に初めて会話した。佳奈の貴広に対する第一印象は、「ザ・野球部!」というものだった。事前の資料では、貴広は甲子園に出場した経験のある有名高校の野球部でキャプテンを務め、残念ながら貴広自身は甲子園出場はならなかったものの、会社に入ってからも野球部に所属して野球を続けていた。身長が高く、肩幅も広い貴広は、30歳になるはずなのに、短髪のせいもあってか、現役の高校球児のように見えなくもなかった。

その取材が終わった後、貴広から食事に誘われた。その後も貴広は何かと機会を見つけては、佳奈に連絡を取るようになった。後になって聞いたことだが、佳奈は社内報の担当として会社の各部署で取材をして回っているうちに、その容姿の美しさと受け答えのスマートさが評判となり、若い男性社員の憧れの的になっていたという。佳奈からインタビューを受けることは、部門長から成績優秀という推薦を受けた名誉もあるが、それよりも佳奈と親しく会話する機会を得ることができるということで、より待ち望まれるようになっていた。その当時の各部署の営業成績は近年なかったほど盛り上がったといわれている。

結果的に、もっとも熱心だった貴広が佳奈と交際を始めた。交際を始めてから結婚までは1年もかからなかった。2人が交際を始めたことは、休日に待ち合わせて映画に行った翌日には社内のうわさになっていた。そもそも遊ぶ場所が多くない地方都市のこと、2人の関係を秘密にしておくことはできなかった。いつものように社員食堂で1年先輩の女性社員と昼食をとっている時に、「聞いたわよ……」と2人のうわさについて聞かされたのだった。その翌日には、部内で「いつ結婚する?」という話が盛り上がっていて、結果的に、初めてデートをしてから半年もたたないうちに佳奈は、結婚退社するあいさつをすることになっていた。多くの先輩社員が社内恋愛・社内婚で、結婚を機に会社を退職してきたという歴史が根強く残っていることもあって、「結婚後も仕事を続けたい」とは、言葉にすることすらはばかられる雰囲気があった。