マンションの前のイチョウ並木は落葉が進み、道路には黄金色のじゅうたんが広がっている。乾いた葉っぱを踏みしめながら、駅の近くのリカーショップへ急ぐ。

うっかり主人の好きな日本酒を切らしていた。普段は穏やかで人当たりのいい主人だが、夕餉(ゆうげ)にこれがないと目に見えて不機嫌になる。

とりわけ今日は、地権者の増岡さんのお孫さんの勉強を見てあげる日だ。さぞや気を遣い、疲れ切って帰ってくるに違いない。

急ぎ足で歩いていると、ふと前方からマンションに向かってくる母子(※)に目が留まった。母親に手を引かれた幼児の色白でクリっとした目や風に舞う茶色がかった髪が、息子の劉成の子供の頃にそっくりだったからだ。

※母子の詳細:【タワマンの「特別感」に心酔した元CA女性…ママ友についた“最初の嘘”】

黄色いダッフルコートにグレーのスパッツ。ハローキティのポーチを斜めがけにしているから、この子は女の子だろう。愛らしい姿に見とれていると、あろうことか、公園の方から猛スピードで駆けてきたシベリアンハスキーが幼児の上にのしかかった。

急な出来事に、母親は足がすくんで動けないようだ。あわてて駆け寄り、コマンドを口にした。「No!」「Lie down!」ダメよ、伏せなさい!

犬はびくっとして幼児から離れ、伏せのポーズを取った。

「大丈夫? このワンちゃんはきちんとしつけられているから怖くないわ。きっと、お嬢ちゃんとじゃれ合っているつもりだったのよ」

怯えて泣きじゃくる幼児を抱き寄せてけががないか確認する。どうやら、かすり傷程度で済んだようだ。間もなく、飼い主らしい若い男女も駆けつけてきた。

「ありがとうございました。母親のくせに何もできなくて」。恐縮する母親の顔には見覚えがあった。確か、いつも25階からエレベーターに乗ってくる人だ。

「無事で本当に良かったわ。私、前に犬を飼っていたの。だから、すぐに対応ができただけ。気にしないで」

まだ泣きやまない幼児の頭をそっとなでると、リカーショップへの道を急いだ。