かぎ分けてしまった夫の裏切り

亮と茉莉が、男と女の関係になっていることは、千尋たちが結婚してすぐにわかった。夫婦となって寝室を一緒にするようになると、亮から漂ってくる茉莉の香水の残り香が鼻についた。千尋は料理の香辛料の違いを一瞬でかぎ分けるほどに嗅覚が鋭かった。亮が仕事の関係で茉莉と打ち合わせをしている日に、茉莉の残り香があることは不思議ではなかったが、そうではない日にまで茉莉の存在を強く感じさせる香りをまとっている亮には許せないものを感じた。

しかし、千尋は青山の店を軌道に乗せることが第一だった。その点については亮の思いも同じで、店を繁盛させるという一点において、夫婦として協力し合うことができた。また、料理長を任せた卓也が優秀で、卓也とメニューを考案している時間が楽しくて亮の浮気のことでクヨクヨするようなこともなかった。店は地域の評判店になり、いわゆるセレブ御用達の店として予約が1年先まで埋まるようになった。

お互いの「言い分」

そして、店がオープンして3年目に、亮が離婚したいと言い出した。その頃には、夫婦の寝室は別になっていたし、一緒に暮らしているといっても顔を合わせるのは朝食の時だけというような関係だった。千尋も離婚することには異存がなかったが、財産分与の話し合いになると、お互いの主張が大きく食い違った。亮は、祖父の時代から続く川崎の店があったからこそ、青山の店の成功があるという主張で、店の権利は7対3の割合で亮にあるとした。千尋は当然、自分には2分の1の権利があると主張した。この主張の隔たりは大きく、互いに譲り合うところがなかったため、裁判で決着をつけるしかないというところまで対立が決定的なものになっていった。

千尋が相談した弁護士によると、離婚時の財産分与は、「夫婦が結婚生活で一緒に築いてきた財産を公平に分けること」が原則だという。千尋が考えたのは「清算的財産分与」といわれるもので、離婚して夫婦生活を解消するのだから、2人で築いてきた財産も対等に分け合いたいと考えた。弁護士からは、亮が離婚を切り出した理由について繰り返し心当たりがないかと確認された。たとえば、亮が不倫をしていたなど、亮にとって不都合な事実がある場合は「慰謝料的財産分与」として千尋の方がより多くの権利を主張することができるということだったが、千尋は、茉莉のことが頭を過ったものの、そこまでの見返りは求めなかった。

ただ、意外なところから亮の立場が崩れた。茉莉が亮の子供を妊娠していることが明らかになったのだ。「食レポの女王」として多くのテレビ番組でレギュラーを持つ茉莉が未婚の母になりそうだというゴシップ記事が写真週刊誌に載ったのだ。週刊誌では相手が誰かということまではわからなかったようだが、関係者の話から茉莉が妊娠していることは事実だと断言していた。この記事を亮に突き付けると、亮はあっさりと、その事実を認めた。亮としては、茉莉の将来を守るためにもマスコミ対策が重要で、千尋との離婚に時間をかけてはいられなかったようだ。このため、慰謝料的財産分与が認められた。

そこから離婚の成立までは早かった。青山の店は、結果的に亮がオーナーとして経営を続け、千尋は慰謝料としてまとまった現金を得て店の権利を手放した。また、2人が暮らしていた都内のマンションは、亮が所有権を千尋に譲渡して千尋の名義に書き換えられた。