矜持と現実のはざまで
朝。台所の窓を少し開けると、冷たい空気が手首に触れた。
しずかは湯を沸かし、薬のケースを流しの横に置く。今日の分を取り出しておけば、慌ただしくなっても飲み忘れない。通院予定の近い週は、特にそうだ。
博は食卓で新聞を広げていた。
湯呑みを2つ並べ、家計メモをテーブルの端に置く。閉店の予定、保険の更新、固定資産税。書き足した項目の横に、小さく丸をつけている。自分が次に何をすべきか、迷わないための印だ。
「ねえ」
博が視線を上げる。
「彩香たちに、相談するのはどう」
言い切ってから、しずかは続けた。
「援助を頼むって話じゃないよ。ただ、状況だけは伝えておきたい。彩香は県外にいるし、急に言うより、前もって知っておいてほしい」
博はすぐには答えなかった。新聞の端を指で押さえたまま、目だけが動く。
「心配かけたくない」
「うん、私もよ」
しずかはうなずいた。その気持ちは同じだ。
「それに……俺は自分の尻は、自分で拭く」
もどかしさがにじんでいた。博には博の矜持がある。正面から折ろうとすれば、別のものまで傷つけてしまいそうだった。
しずかは湯を注ぎ、湯気の立つ湯呑みを博の前に置いた。
「分かった。無理には言わない」
その代わりに、しずかは家計メモを開く。
「ただ、これからのことを決めたいの。今週、私は求人を見に行く。午後の短時間で探すから。あなたも、自分が応募できそうなところを選んでほしい」
博は湯呑みに手を添え、その温かさを確かめるように指を動かした。
「……分かった」
博が小さくうなずいた。新聞をたたむ音がして、しずかはようやく朝の時間が動き出したように感じた。
●夫・博が突然退職を決めた。自己都合のため退職金は大幅減額。妻・しずかもパート先が年内で閉店することに。通院費や固定費を抱える中、2人は再就職を決意するが…… 後編【「取り戻そうとしてドツボにはまった」仕事探しのはずが投資の値動きを見つめる夫…妻が画面で目にした“衝撃の残高”】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
