母の眠る墓前へ
週の終わり、詩織は三度地元を訪れた。今回は誰に連絡をすることもなく、1人で向かった。
受け取った300万円は、女性支援を行う団体に寄付することにした。
あれは、母の人生そのものだ。長く声を押し殺し、誰にも届かない想いを積み重ねてきたその時間。だからこそ、詩織は母や自分たちと同じような苦しみや悩みを抱える人のために、あのお金を使うべきだと思った。
「結構遠いな……」
母の墓は、山裾の静かな霊園にある。秋の風に揺れるすすきの向こう、淡い曇り空の下に、母の眠る墓石がひっそりとたたずんでいた。
墓前にしゃがみ、持ってきた花を一輪供える。白いカーネーションは派手なものではないが、母が好きだった花だ。
「……ありがとう」
ほとんど聞こえないほど小さな声だったが、詩織は確かにそう言った。
生きているうちに、伝えたかった言葉。もう母はいない。
墓前に手を合わせ、しばらく目を閉じる。
耳を澄ませば、風の音、鳥のさえずり、遠くで子どもの笑い声が混じっていた。
かつてこの町で、母も同じ音を聞いていたのかもしれない。
母として、妻として、言葉にできなかった無数の感情を胸に抱えて——。
やがて詩織はゆっくりと立ち上がった。
誰にでも、自分の物語がある。そして、母の物語もまた、自分のなかに生きている。
帰り際、物言わぬ墓石に向かってぽつりとつぶやいた。
「じゃあね、お母さん。また来るね」
風が、草むらをかすめて通り抜けた。白いカーネーションの花びらがわずかに揺れ、秋空の淡い光が墓前にそっと差し込んでいた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
