詩織に宛てた母からの言葉
家に着くと、直樹はまっすぐに仏間へ詩織を通した。仏壇の横の小さな木箱の上に、白い封筒と年季の入った通帳が置かれていた。封筒には「詩織へ」と、母の丸く優しい筆跡がある。
詩織は静かに座り込み、封筒を手に取った。指先がわずかに震える。紙の感触がやけに重たく感じられた。中身をまだ開いていないのに、胸の奥に、じくじくと鈍い痛みがにじみ出す。
「なんで今さら……」
たかが300万円。自分の今の収入からすれば、特別大きな金額ではない。
しかし、あの母がわざわざ詩織に宛てて財産を残した。その理由のほうが、詩織にとってはるかに重要だった。
「ちょっとお茶、頼んでくる」
彼なりに気を利かしたのだろう、直樹は妻の名を呼びながら部屋を出ていった。
「読むか……」
封を切る音が、部屋の静けさの中に小さく響いた。詩織は、封筒から便箋を取り出した。
文字は丁寧で、どこかよそゆきの筆致だった。お手本のような整った字——しかし、ところどころ震えてにじんでいる。
「詩織へ」
自分の名前が目に入った途端に胸がひどく締めつけられた。とっくに忘れたはずの母の声が、かすかに耳の奥に蘇るような気がした。
「あなたには、辛い思いばかりをさせてしまいました。お父さんに逆らえなかった私がいけなかったのです。あの家で、母親として何もしてあげられなかったこと、ずっと後悔しています。本当にごめんなさい」
読み進めるうちに、詩織はゆっくりと息を吸い込んだ。謝罪の言葉を、母の口から聞いた記憶は一度もなかった。いつも黙って、ただ微笑むだけの人だった。その人が、自分の過去と向き合って書いた手紙。それが今、自分の目の前にある。
「あなたが家を出て行って、直樹が独り立ちして時間ができたときに、お父さんたちには内緒で内職を始めました。その通帳は、いつかあなたに渡そうと思っていたものです。あなたの好きなようにしてください」
さらに手紙には、詩織の幼い頃のことが書かれていた。
女の子だというだけで、我慢させたこと。父が絶対だった家で、母自身も何もできなかったこと。子どもたちの進路についてすら、口出しできなかった日々。
「それでもあなたのことを、いつも見ていました」
その一文に、詩織は息をのんだ。見られていないと思っていた。理解されていないと思っていた。ずっと。
「自分の力で道を切り拓いていくあなたを、私は誇りに思っています」
ゆっくりと最後まで読み終えたとき、詩織の目には涙が溜まっていた。ぽたり、と便箋の上に雫が落ちる。自分が泣くなんて思ってもいなかった。
「お母さん……」
通帳の300万円。
それは、常に冷遇されてきた詩織への、母なりの罪滅ぼしだったのだ。
専業主婦の母が、こっそりと積み上げてきた月日の証。おそらく成人式か、結婚式のときにでも渡すつもりだったのだろう。だが、詩織は帰らなかった。渡せないまま、もう詩織たちの人生は交わるための機会を失った。
