父が口にしたのは

ふと、父がぽつりと呟いた。

「……退職して、もう7年になる」

惟子は驚いて父を見る。

確かに父は、60歳で長年勤めた会社を辞めた。65歳が定年だったらしいから、早期退職ということになる。

「最初は自由でいいと思った。好きなだけ本を読んで、散歩して……でもな」

そこで言葉が途切れた。沈黙の中で、惟子はソファの向かいに腰を下ろす。

「毎日同じ日が続くんだ。寝ても冷めても同じ日の繰り返し。気がついたら……なんだか、どうでもよくなっていた」

呟くような声。淡々としていたが、紛れもなく初めて耳にする父の本心だった。

「最初はほんの気まぐれだった。ポケットに缶コーヒーを入れたんだ。レジを通らずに外へ出て……誰にも気づかれなかった……それで……」

惟子は黙って耳を傾けた。叱るべきなのだろうか、問いただすべきなのだろうか。でも、どちらの気持ちも湧いてこなかった。ただ、孤独の中で擦り切れていった父の言葉が、痛いほど胸に染みた。

時計を見ると、もうすぐ日が暮れる時刻だった。惟子は立ち上がり、台所に向かうと、冷蔵庫を開けた。中には安い発泡酒と、中途半端に残ったパックの惣菜が入っているだけ。仕方なく夕食は出前を頼むことにし、惟子は散らばったゴミを時間の許す限り片付け続けた。

●惟子は万引きがきっかけではあるが、久方ぶりに父との時間を過ごすことになる。二人で酒を酌み交わす中で、惟子は忘れていた家族3人での日々を思い返す。そして、父が決して捨てることのなかった、ある思い出の品の存在を知るのだった。後編【「こんなの…取ってあったんだ」疎遠だった父と実家で酒を酌み交わし娘が知った「父の日の真実」】にて詳細をお届けする。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。