広く静かになった家を見回した。もう3人分の食事をつくることも、忙しい朝に2階まで起こしに上がることもない。改めてそう思うと、暮らし慣れた家の光景がモデルハウスのように素っ気なく、自分とは関係のないもののようにすら感じらえた。

「どうしたの、ため息ついて」

そう夫に言われて、夏子は自分がため息をついていたことに気づく。

「どうもしないよ。ただ、なんか家が広いなって思って」

「今度旅行にでもいこうか」

「なに? 珍しいこと言うのね」

「慰安旅行ってやつだな。夏子にもようやく時間ができたんだし、羽を伸ばしたっていいだろう」

「そんなこと言って、あなたが羽を伸ばしたいだけでしょ」

夏子は笑って、となりに立つ夫の肩を軽く小突いた。

3月に入ってすぐ、高校の卒業式を終えた一人娘の有希は4月からの大学生活のために早々に上京した。もっとゆっくりすればいいのにとも思ったが、早めに独り暮らしに慣れておきたいのと有希は聞かなかった。

18年、懸命に育ててきた時間の終わりとしては寂しいものだった。夏子からしてみれば、有希は何歳になろうとついこの前までおむつをしていた子どもの気分だ。だからこそせめてもの親心というか、引っ越し費用にかかった10万円に加えて、洗濯機や冷蔵庫などの白物家電、大学の勉強で使うノートPCなど、総額で50万弱ほどの費用を工面して有希の新生活がつつがなく始まっていくようにサポートした。

だがそんな親心を、有希は知らないのだろう。とはいえこれくらいでよかったのかもしれないと思う。有希はこれからの人生、どんな可能性だって掴むことができる。自分の選択で、どんな道だって歩んでいける。そこに親が干渉しすぎては鬱陶しいだろう。

リビングのテーブルの上でスマホが震えた。かけていた掃除機を止めて見てみれば、どうやら東京に着いたらしい有希からのメッセージだ。シュールな絵柄の猫が「とうちゃく!」と胸を張っているスタンプひとつ。有希らしいと言えばらしいのかもしれないが、母親としてはやっぱり寂しい。夏子はすぐに通話のアイコンをタップした。

『あ、お母さん? どうしたの? わたし、これから電車乗るんだけど』

「もう、何なの? あんなスタンプひとつで」

『だって、荷物重いんだもん』

夏子はため息をつく。だがこうして短い言葉を交わすだけでも、有希がわくわくしている様子が分かる。

「静香ちゃんも一緒? 代わってもらえる?」

『また? 出発のときも散々話してたじゃん』

「いいから。ふわふわ浮ついてるあなたのこと、ちゃんとお願いしなきゃいけないでしょう」

『ちぇー、分かったよ』

有希はしぶしぶと一緒にいる幼馴染の静香に電話を代わる。

静香と有希は幼稚園のときからずっと一緒で、今でも家族ぐるみで付き合いがある。進学先は違うがお互いに東京の大学に進学することもあり、2人は出発を合わせて一緒に上京していた。

有希は少し抜けているところもあるが、静香はしっかり者で真面目なので、そんな彼女が娘と一緒にいてくれるおかげもあって心配はしているものの不安は抱かずに有希のことを送り出すことができたわけだった。

「あ、静香ちゃん? 大丈夫? 有希が迷惑かけてない?」

『はは。大丈夫ですよ。むしろ有希なんて、さっきまで人多すぎじゃない? ってちょっとビビッてたくらいです』

背後で「言わないでよ」と有希が文句を言っている声が聞こえる。

「有希のことじゃなくても、何か困ったことあったらいつでも言ってね」

静香と数往復の世間話をして、夏子は電話を切った。洗濯物を洗い終えた洗濯機がピーピーと音を鳴らす。夏子は伸びをして立ち上がり、中断していた家事を再会した。