会議室に山積みになった書類を前にして、有海は人知れずため息をついた。いくら屋内とはいえ、空調のついていない部屋の空気は凍えそうなほど冷たく、とうに40歳を過ぎた有海の身体には、ひどく堪えるものだった。
この地区センターが主催するクリスマスイベントまであと1週間。館内の廊下には、常にバタバタと職員たちの足音が響いていた。
子どもたちのために予定されているイルミネーション点灯式とミニコンサートの準備は、予算も人員もぎりぎりで進んでいるのだ。やるべきことは山ほどあるが、イベントを楽しみにしている人々の顔を思い浮かべると、なんとか乗り切れる気がしていた。
だが、そんな思いもつかの間。
センターの入り口から騒がしい声が聞こえ、若い職員が慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
「馬場さん! 塚田さんがまた来てます!」
「ああ、またですか……」
有海は作業の手を止めて、苦笑しながら立ち上がった。
「私が対応してくるので、しばらくここ代わってもらえます?」
若い職員に後を任せると、有海は小走りで入り口の方へ向かった。
「……おい! お前ら、何度言ったら分かるんだ! 俺の金をこんなふうにして!」
センターの自動ドアが開くと、冷たい風とともにしわがれた怒鳴り声が飛び込んできた。
声の主は、塚田健一。迷惑クレーマーとして、この地区では有名な高齢者だ。特にここ数週間、彼の姿を見ない日はない。
「この税金泥棒どもめ!」
健一はつえを振り回しながら、イルミネーションの飾り付けがされたセンターの外壁を鬼の形相でにらみ付けていた。近くを通りかかる人々がちらちらと彼を見やりながら足早に立ち去っていくのが分かった。
「塚田さん、落ち着いてください。私が話を聞きますから……」
有海は努めて冷静な声を作って、健一をなだめた。
ここ最近は、健一がセンターにやって来ると、なぜか有海がクレーム対応に駆り出されるのが常になっていた。おそらく最初のころに彼の対応をしたのが有海だったからだろう。興奮状態の高齢者を相手にするのは根気が必要だが、イベントの担当者でもある有海としては他の者にこの面倒ごと押し付けるのも気が引けた。
「なんだ、またあんたか……」
健一は、有海の方を見て一瞬おとなしくなった。どうやら毎日のように顔を突き合わせているうちに有海のことを覚えたらしい。
「話す必要なんかない! 見ればわかるだろうが! こんなくだらない電飾に税金を使いやがって! 誰が許可したんだ! 説明してみろ!」
「それも含めて、きちんとお話ししましょう。寒いですし、中に入りましょうね」
応接室で向かい合った健一は、なおも怒りが収まらない様子で拳を握りしめていた。
「あんた、馬場さんとか言ったか? お前らの仕事はな、もっと他にあるはずだ。道路の穴を直すとか、ゴミの収集を増やすとか! 住民のためとか言ってごまかすんじゃない!」
地区センターのサービスは防犯や福祉に関するものがメインで、道路の修繕やゴミ収集のスケジュール策定は管轄外だが、健一にとっては大した違いではないらしい。内心苦笑しながらも、有海は表情には出さないように気を付けた。
「イルミネーションの予算は、地域の振興のために住民のみなさんと話し合って決めたものです。もちろん塚田さんのご意見も大切ですが、全体の意見を尊重する必要があります」
有海の説明に、健一は鼻を鳴らした。
「話し合いだって? うそばっかりだ! そんなの、俺は1度も聞いてないぞ!」
「回覧板や掲示板でお知らせしていましたが、確認していただけていなかったかもしれませんね。でも、地域の皆さんがとても楽しみにしているイベントなんですよ」
健一は目を細め、吐き捨てるように言った。
「楽しみにしてるのは、どうせお前ら役人と金持ちだけだろうが!」
その言葉に、有海の胸にかすかな痛みが走った。健一が普段、どれだけ孤独に過ごしているのか、彼の言葉の端々から感じ取れたからだ。