<前編のあらすじ>
幹也は(34歳)は、会社を辞めて地元に戻ってきた弟がカニ漁に出ると聞いて複雑な思いを抱く。
たしかにカニ漁は上物が水揚げできれば、サラリーマン時代の月収の10倍と、大金を稼ぐことも夢ではない。
漁師だった幹也たちの父もカニ漁をなりわいとしていた。過去を忘れたような弟の態度に、幹也は思わず強く口出しをしてしまう。弟と取っ組み合いのケンカをしながら、幹也は過去を思い出していた。
●前編:「手取りがサラリーマン時代の10倍に…」カニ漁はもうかるのか? 海に出ると言い出した弟を許せない兄の「家族の確執」
病気の母を置いて家を出る父
母が倒れたと知らされたとき、幹也は高校2年生で退屈な数学の授業を受けている最中だった。青白い顔で教室に飛び込んできた教頭の表情は、今でも鮮明に思い出すことができる。
学校を早退し、教頭が手配したタクシーに乗った。途中で中学に寄って弟の佑次を拾い、病院へと向かった。2人ともタクシーの中ではしゃべらなかった。母さん大丈夫かな、と口に出してしまえば容体がよくないことが現実になってしまうような気がした。
6人部屋の病室で横たわる母は、兄弟を笑顔で出迎えた。しかし顔色は悪く、幹也は、そして佑次もおそらく、母の状態が芳しくないことはすぐに理解できた。
「ごめんねぇ。学校早退させちゃって。お母さん、しばらく検査で入院しなくちゃいけないんだと。しばらく2人で頑張れる?」
力なくほほ笑む母に幹也は何も言えなかったが、佑次は「余裕」と笑って返していた。
家に帰った幹也たちはどうにか父に連絡できないかと話し合った。遠洋漁業に出る船には必ず衛星電話が取り付けられているが、通信料は高く、めったなことがなければかけてくるなと父に言われていた。
「だけどこれはめったなことだよな」
「いや、検査入院なんだろ? それならそんな騒ぐことないって。予定では来週には帰ってくるんだから」
「本当にそう思うか?」
「思うよ。母さんがそう言ったんだから、疑ったってしょうがないし」
佑次の言葉はそう信じたがっているようにも聞こえた。だから幹也も信じることにした。しかし母はなかなか退院しなかった。
入院から三週間がたって、ようやく母が退院できることになったとき、状況は大きく変わっていた。
母はがんだった。しかもすでに全身に転移していて、余命はもう長くないとのことだった。父と佑次と三人で診断結果を聞いて、これまで通り、何も変わらずに振る舞って、母を送り出そうと決めた。だが日に日にやつれていく母を見ていると、幹也はいつも泣きそうになった。涙をこらえると顔に変な力が入った。これまで通りになんて笑えなかった。
「父ちゃん! 何考えてんだよ!」
朝、目を覚ますと、玄関口から佑次の怒鳴り声がした。気になって玄関へ向かうと、仕事着を着込み、荷物を背負った父の行く手を阻むように、佑次が玄関扉に張り付いていた。
「佑次、どけ。遅れんだろ」
「母ちゃんのそばにいてやれよ! 母ちゃん、日ごろどんだけ寂しい思いしてんのか分かってんのかよ!」
「仕事なんだよ。俺が稼がなきゃ、お前らの飯も、あいつの治療費も払えねえんだ。どけ」
父はぶっきらぼうに言って、力任せに佑次を引きはがそうとした。佑次は腰を落とし、全身に力を込め、必死になって抵抗した。しかし大人の、しかも腕っぷしがものを言う漁師の腕力の前にかなうはずもなく、あっけなく引きはがされて玄関に倒された。
「普段通りに振る舞え。それがあいつも1番喜ぶ」
そう言って、父は家を出て行った。幹也は父を追いかけて、はだしのまま外に飛び出した。
「父ちゃん!」
車に乗り込む父に向けて、幹也は叫んだ。父は何も答えず扉を閉め、エンジンをかけた。幹也は運転席のほうへと回り、窓ガラスをたたいた。父はアクセルを踏んで車を発進させた。幹也は砂利の上にしりもちを突いたが、すぐに立ち上がって走りだした車を追いかけた。追いつけるはずはなかった。まだ日の昇っていない空は暗く、明滅する街灯の周りには蛾が舞っていた。