お母さん、119番通報しないと!
ようやく建物の外に出ると、そこにはすでに住民たちが集まり、ざわめき立っていた。
もうもうと夜空に立ち昇る真っ黒な煙と、その隙間からちらちらと見える赤い炎。どうやら騒いでいた通り、1階にテナントとして入っている飲食店が激しく燃えているようだ。
「どうしよう、どうしよう……!」
美花は自分でも驚くほど混乱し、言葉がうまく出てこなかった。先ほどまでは、葵と自分の安全を確保することに必死で、恐怖を感じる暇もなかった。しかし、無事に火の手を逃れられた途端に、自分の住むマンションが火事になったという現実が容赦なく襲い掛かってきた。
「お母さん、119番通報しないと!」
そのひと言で美花はわれに返り、焦りながらポケットに手を入れるが、スマートフォンが見当たらない。慌てて飛び出してきたせいで置いてきてしまったらしい。
「どうしよう、携帯持ってきてない……」
美花が不安そうにつぶやくと、近くにいた別の住民の男性が声をかけてきた。
「もう通報してあるみたいですよ。大丈夫」
その言葉に、美花は心底ほっとし、脱力するように肩の力が抜けた。
「そ、そうですか……ありがとうございます」
いくらか冷静さを取り戻しかけた美花は、隣でじっと炎を見つめている葵に目を向けた。火が立ち昇る建物を凝視するその横顔には、動揺の色はあまり見られない。むしろ、その落ち着いた様子が頼もしく思えるほどだった。
「葵、なんだかすごく落ち着いてるね……」
美花が感心したようにそう言うと、葵は少しだけ照れたように目を伏せた。
「学校で避難訓練のとき、先生が言ってたの。こういうときは、まず慌てずに避難して、それから119番通報するって」
「そっか……学校で習ったんだ」
美花は思わず表情を緩ませた。さっきまでの気まずい空気はなく、ごく普通に話せていることに少し安堵する。
「そう言えば……あのとき、どうして向こう側の階段はダメって分かったの……?」
「だって、みんな、1階で火事だって言ってたから。1階が火事になったときは、駐車場側から避難するって思い出しただけだよ」
まさか10歳の娘がマンションの避難経路を覚えていたとは夢にも思わなかったので、何てことない調子で説明した葵に驚きを隠せなかった。しかも、葵は緊急時にそれをすぐ思い浮かべて、実際に行動に移すことができていた。慌てることしかできなかった自分とは大違いだ。
「すごいね、葵……お母さん、葵のおかげで助かったよ。ありがとうね」
「うん。正直ちょっと怖かったけどね」
葵は照れくさそうに笑う。
やがて近づいてくるサイレンが夜の空に響き渡った