球場のベンチに座る涼は胸に忍ばせたお守りをユニホームの上から握りしめ、精神統一をしていた。プロのユニホームを着るのはこれで最後かもしれない。そう思うと必要以上に自分を追い込んでしまう。だが、力んでいいことなど1つもない。そう自分に言い聞かせた。
今日は12球団合同トライアウト。所属していたプロ野球チームから戦力外通告を受けた涼にとって、これが最後のチャンスだった。年齢も31歳で、よほどの結果を残さない限りは厳しい。その現実を踏まえつつ、涼は気持ちを落ち着かせていた。
入念に素振りをする。腰も問題ない。むしろここ数年で1番の調子だった。
涼は大卒5年目、つまり選手として最もあぶらの乗ったこれからという時期に、いわゆる「野球腰」――腰椎分離症を発症した。ようやく1軍ベンチに固定で入れるようになり、レギュラーを狙うチャンスが巡ってきたタイミングだった。しかしけがにより1シーズン離脱しているうちに同じポジションの後輩が頭角を現し、涼の出番は失われた。チームが新たに獲得した選手の人的補償で、移籍することになっても、状況は好転しなかった。
涼は元々、ダイナミックなスイングが魅力の長距離ヒッターとして期待されていた。しかしけが以来、思ったようなスイングができなくなっていた。ずっとけがのせいにしてきたが、でも今日だけはけがを言い訳にしたくない。妻の楓と娘の新奈がくれたお守りをもう一度握り締め、打席へと向かう。
戦力外通告を受けたときは絶望と同時に納得感もあった。結果を残せない人間に居場所はない。それがプロの世界だと分かっていた。しかしもう終わりでもいいかもしれない……という気持ちを、妻と娘が支えてくれた。2人のためにも、今日だけは結果が欲しい。
審判に一礼し、足元の土を馴染(なじ)ませる。バックスクリーンを確認し、バットの先でベースの隅をたたくルーティンをこなす。涼は構える。対戦投手が伸びやかなフォームから1球目を投じる。内角高めの打ちごろ――涼の最も得意とするコースだ。
涼は腰を回転させ、バットを鋭く振った。確かに捉える。しかしスイングは球圧に押し負け、打球はバックネットへと向かう。
(振り遅れた……)
涼は対戦投手を見据える。日本刀のように研ぎ澄まされた、いい表情をしている。人生をかけて今日に臨んでいるのは涼だけではない。今、振り遅れたのは気持ちで負けている証拠だった。
涼は気を吐いた。再びバットを構えた。