夫の部署移動
新婚生活は順風満帆だった。新婚旅行ではファイフィクの〈はじまりの街〉のモデルにもなっているヨーロッパの街へ行った。もちろんゲームだってやった。難易度高めのクエストの沼にはまり、気がついたら2人して朝を迎えてしまった平日もあった。死にそうと愚痴を言いながら2人で乗る満員電車すら、幸せだった。
「そういえば、俺、春から部署変わるっぽい」
帰りにテイクアウトしてきた中華を箸でつついているとき、徹が思い出したかのように言った。
「そうなんだ。どこ?」
「営業」
「え、今人事だよね? そんなアクロバティックな異動あるの」
「人事の仕事、あんまり楽しくなくてさ。前々から希望出してたんだよね」
営業のほうが大変そう、とは言わないでおいた。徹がやりたいと思い、頑張るつもりでいるのならそれが1番だと思った。
「営業だとさ、契約とれればインセンティブも出るし、実績によってはボーナスなんかもかなり出るっぽいんだよね。ほら、夏織、VRゲーム気になるって言ってただろ? 給料上がったら、心置きなく買えるからさ」
「え~優しいじゃん。買ってくれるってこと? 楽しみにしてよーっと」
徹の人生の選択の理由に、自分が関われていることがうれしかった。夏織は思わずほころんでしまう口元をごまかすようにして、チャーハンを頰張った。
食事は一緒に。
別にどちらから提案したわけでもなく、同棲しているときから続く夏織たちの習慣だった。
けれど結婚から半年がたち、夏織はラップをかけた料理の前でスマホを眺めている。
案の定、営業部へ異動した徹の仕事はこれまでとは比べものにならないくらい忙しくなった。20時、21時くらいまでの残業は当たり前で、帰りはいつも22時を過ぎた。
以前ならばこの時間は2人でゲームをしている時間だった。2人でやろうと買ったファイフィクの新作は、チュートリアルを終えたところで止まっている。
SNSのタイムラインを眺める。視線がすべっていくみんなの投稿には、高すぎる難易度への悲鳴や、レアアイテムのドロップ報告、グラフィックの美麗さへの嘆息とともにゲームのスクショ画面が添付されている。
『最近ぜんぜんゲームできてない』
夏織は投稿画面に打ち込んだ文字をすぐに消す。さっきから少しずつ違う内容を打ち込んでは消す作業を、延々と繰り返し続けている。
時計の針が22時半を過ぎたころ、玄関の鍵が開けられる音がした。
夏織は立ち上がって玄関へ向かう。壁に手をついて靴を脱ぐ徹の首の下で、緩められて曲がったネクタイが揺れていた。
「おかえり」
「あぁ、ただいま」
「大丈夫? さすがにちょっと働きすぎじゃない?」
徹は最近、痩せた。休憩もろくに取れないのか、昼食は営業車のなかでゼリー飲料で済ませていると言っていたことを思い出す。
疲労のせいで表情はやつれて見えるのに、営業の仕事はよほどやりがいがあるのか、目だけが爛々(らんらん)と光を放っているのが不気味だった。
「まあ、確かに働きすぎかも」
徹は自嘲的に、だけど誇らしげに笑う。
「でもさ、今月の給料見たろ? 俺、けっこう成績もよくってさ。まだ覚えることのほうが多いんだけど、インセンティブだってもらえてるんだ」
「すごいね……。でも、無理しないでね」
徹が頑張っているのは、2人の生活のためだということは分かっている。だから夏織にはそれ以上何も言えなかった。
「ご飯どうする?」
「いいや。実はまだ仕事残ってるんだよね。あ、なんか作ってる? そしたら先にそっちから片づけるけど」
徹はネクタイをほどきながら夏織の横を通り抜けていく。リビングへは行かず、そのまま寝室にある机にパソコンを広げる。
「……大丈夫。徹の好きなタイミングで、チンして食べて」
「ああ、うん。助かる」
ディスプレーのブルーライトに照らされる徹の横顔は、夏織のほうを見ることなくそう言った。