信頼関係の構築
翌日、一郎はとあるところに電話をかけた。
「あら、一郎さん。どうかしたの?」
相手は尚子だった。
これも晴美の教えだ。尚子は犬を飼ったことがあって、とても詳しいらしい。困ったときは頼るよう、手紙にも書いてあった。
「実は、最近、犬を飼いだしたんです。たぬきちという名前のパグで、オスの……」
「あら~、そうなの~。晴美もね、犬を飼いたがっていたから、きっと天国で喜んでいるわね。それで、何か相談事?」
妙に話が早いなと思った。きっと尚子は晴美から“うちの夫が犬のことで連絡するかも”というような話を聞かされていたのだろう。晴美は本当に世話焼きで、そんな晴美がどうしようもなくいとおしかった。
「……はい、ご相談したいことがありまして、たぬきちが餌を食べてくれません」
「あら」
「保健所の係員の方から教えていただいた餌を与えているんですが、もうどうしたらいいのか……このままではたぬきちが飢えてしまいます!」
「落ち着いて? それはね、きっと信頼関係がまだできてないからだと思う」
「信頼関係?」
「保健所に引き取られていた犬っていうのはいろいろな事情があるんだけどね、やっぱり心に傷を持ってて、人間をすぐには信用してくれないの。だから時間をかけて、信頼関係を作らないと難しいかもしれないわね」
信頼関係の構築。一郎が1番避けていたものだ。しかし今はそんなことを言ってられない。たぬきちの命が掛かっている。
一郎は尚子に礼を述べて、電話を切り、ケージの中でおとなしくしているたぬきちの前に座った。
「なあ、たぬきち。いきなり俺みたいなヤツと一緒に住むことになって、それは嫌だろうな。俺が犬好きじゃないっていうことはもう見抜いているんだろ?」
たぬきちはうつろな目でこちらを見ている。何の反応もない。
信頼関係を結ぶというのは一郎にとって1番難しいことだった。成功したのは晴美だけ。晴美とどうして知り合えたのか、それを思い出していた。
高校時代に付き合ってほしいと晴美から言われ、交際が始まった。しかし一郎は付き合うというのが気恥ずかしく、交際から半年がたってもそんな思いがあったため、晴美を突き放すようなことを言ってしまった。
そのとき、晴美が怒り、それに一郎も応戦。一郎たちは激しい口論になったのだが、いつしか、お互いに対する素直な気持ちを言いあうようになり、思いがつながったのだ。
後にも先にもけんかはその1度だけ。だが、それが重要だった。正直な思いを口にすること。それが信頼関係を結ぶ上で大事なことだった。
「たぬきち、一緒に年を取らないか? 1人はとても寂しいよ。俺は空っぽだ。だからお前が俺のことを埋めてくれ」
しばらくすると、たぬきちがのそりと体を起こし、ケージを出た。
そのままゆっくりと容器に顔を入れて食事をしてくれた。一郎はその光景を黙って見続けた。
その日の夜から少しの間、一郎もケージの横に布団を敷いて一緒に寝た。