妊娠中に登山で家を空けた夫

瞳が「子どもが欲しい」と言ったとき、夫はあまり良い顔をしなかった。子どもがいればお互いの自由な時間が減るし、人生の選択肢も狭まってしまうと言われた。

しかし、瞳はどうしても子どもが欲しかった。

「子どもが生まれても、山に行かないでとか言わないから」

瞳はそう言って夫を説得した。だから、つわりがひどい時期に智樹が登山のために数日間家を空けても文句を言わなかった。子どもが生まれたらきっと変わってくれるだろうと考えていた。しかし、夫は変わらなかった。

春になれば「新緑がきれいだから」と山に行き、夏になれば「夏は登山シーズンだから」と山に行き、秋になれば「紅葉を見逃したくない」と山に行き、冬になれば「樹氷を見たい」と山に行くのだった。

さすがに何度か文句を言ったのだが、そのたびに「話が違うじゃん」と言い返され、お互いが嫌な気分になるまで言い合いが続いた。たしかに自分は「子どもが生まれても、山に行かないでとか言わないから」と言ったが、実際に子どもが生まれたら、夫が自主的にセーブしてくれるものだと甘く考えていた。

「ほら、そろそろ寝ないと明日起きれないぞ」

夫はそう言いながら直太朗を軽々と抱っこして、布団の敷いてある和室へと消えていった。細身に見えるが、登山で鍛えている夫はなかなかたくましいのだった。