「今度、北海道のトムラウシ山に行ってくるから」
仕事を終えて帰宅するなり、夫はさらっとそう言った。井上瞳は思わず文句を言いたくなったが、ぐっとこらえた。ここで自分がなにか言えば「話が違うじゃん」と言われ、また水かけ論が始まってしまう。
夫である智樹は大手化学メーカーでエンジニアをしている。仕事はそれなりに忙しいようだが、休みになると頻繁に登山に出掛ける。夫は学生時代から登山を続けており、富士山にはもう3回登ったことがあるという。
しかし、瞳は山にまったく興味がない。というより、学生時代にやっていたバレーで膝を痛めてしまったため、膝に負担がかかる登山をすることができないのだった。
「北海道の山とか、まだ寒いんじゃないの?」
「まだ雪は残ってるはずだからアイゼンは持っていくけど、普通に登れるよ」
「そうなんだ。何日間ぐらいかかるの?」
「東京から北海道を往復するのにも時間がかかるし、5日ぐらいだね。土日と有給を組み合わせるから大丈夫」
いったいなにが大丈夫なのか、瞳にはまったく理解することができなかった。夫婦2人で暮らしているならまだしも、まだ3歳の息子がいるというのに。
「パパ、おかえり!」
父親が帰宅した気配を察知した直太朗が布団から抜け出してリビングにやってきた。もう髪に寝癖がついている。
「直太朗、まだ寝てなかったのか」
「保育園でお昼寝したから眠くないもん!」
パジャマ姿の直太朗が夫にぎゅっとしがみついている。
「そんな格好でいると風邪ひくぞ」
夫は笑いながら直太朗の頭を優しくなでる。
決して息子のことが嫌いなわけではないし、自分のことを愛してくれているのも分かる。しかし、登山という趣味は夫にとって家族と同じくらい大切なものなのだ。それを見抜けなかった自分が良くないのかもしれない。