雨が降り出す少し前、玄関の扉が開く音がした。

「ただいまー」

間延びした声に続いて、紀子はすぐに娘の気配を感じ取った。せわしない足音、鞄を雑に置く音、そして、ふとリビングのドアから覗いた顔――その瞬間、紀子の手が止まった。

「幸江……あんたその髪、どうしたの?」

突然変わった娘の髪

幸江の髪は、まるで別人のように真っすぐだった。湿気でふくらむいつものくせ毛は跡形もなく、光をはね返すようなストレートヘア。高校までの制服姿がまだ記憶に新しいのに、今目の前にいるのはどこかの見知らぬ「大学生」の顔だった。

「縮毛矯正してきたの、美容院で」

幸江は前髪をしきりに触りながら、やや警戒したように眉を引き上げて答えた。紀子は、返す言葉を探すのに少し時間がかかった。

「……それ、いくらかかったの? 高いんじゃないの? 縮毛矯正なんて」

口元に無理に笑みを浮かべたが、紀子の声には自然と非難の色が滲んでいた。

「別にいくらだっていいでしょ」

途端に幸江の声色に棘が混ざる。紀子は思わず反射的に言葉を押し出した。

「別にってあんた……そんなのにお金かけて、もったいないわよ。どうせすぐに元に戻るんでしょ」

沈黙が落ちて、幸江の表情がすっとこわばった。

「……ママ、そういうとこだよね。高校のときからずっと。化粧しただけでなんか言うし、服も髪も……」

「あんたがろくに勉強せずに、見た目ばっかり気にしてるからでしょ。……お姉ちゃんはそんな子じゃなかったのに」

「今、お姉ちゃんは関係ないでしょ」

言われた瞬間に紀子自身も「しまった」と思った。でも、止められなかった。何度も繰り返してきた癖のようなものだった。

「……ママはもっと将来のことも考えなさいよ、って言ってるの。そんなものにお金を使う暇があるなら……」

「ママには分かんないよ、私の気持ちなんか」

幸江は声を荒げ、そのまま自室に引っ込んだ。ドアが乱暴に閉じられる音が響く。

紀子はリビングに立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。テーブルの上の新聞が風でめくれ、雨の匂いが窓の隙間から入り込んでくる。ついこの間まで、自分の膝に乗って甘えていた幸江が、いつの間にかまるで違う言語を話すようになっていた。「はあ……やっぱり下の子って大変」

その晩、幸江は食卓に現れなかった。

部屋をノックをしても返事はなく、スマホでメッセージを送ると「いらない」とだけ返信が届いた。

紀子はため息をつきながら、冷めきった夕食を片付け始めた。