妻を襲ったもの
2年前、突発性難聴を発症し、仕事がままならぬなり、休職を余儀なくされた真澄を見て、聡志は提案した。
「2人で、田舎に引っ越さない?」
あのあっけらかんとした一言で、すべてが動いた。大企業で課長職まで上り詰めた彼が、まさかスーツを脱いでコーヒー豆を煎るようになるなんて、夢にも思わなかった。
移住先に選んだ町の空気は澄んでいて、夜には星が綺麗に見えた。多少の不便さは感じるものの、季節の移ろいがゆっくり肌に伝わってくる日々は、確かに真澄の心身を癒してくれた。しかし、未だ町の人々はどこかよそよそしい。真澄たちを「お客さん」のように扱うその距離感は、2年経っても埋まらなかったのだ。
「明日は暑くなるらしいよ。みんな、涼みに来てくれるといいね」
聡志が、出入り口のガラス越しに外を見ながら言った。目をやると、茜色に染まりつつある緩やかな山の稜線の上をはぐれ烏が1羽、横切っていった。