「家族っていうものにあんまり良い思い出がないんだよね」

派遣社員として働いていた20代の夏海は、たまたま派遣された会社で洋史と知り合った。

「今井さん、この作業まだ教わってないよね?」

初めて洋史が声をかけてきた日、彼の自然な気遣いに心が和んだのを今でも覚えている。

夏海は彼の明るくもひょうひょうとした性格に惹かれ、それから半年も経たないうちに一緒に暮らし始めた。

洋史との暮らしが始まったばかりのころ、夏海は密かに彼と将来籍を入れることを考えていた。しかし、それとなく話題を振ると、彼が入籍には否定的であることを知らされた。

「実は俺さ、家族っていうものにあんまり良い思い出がないんだよね」

そう言う洋史の顔はどこか寂しげだった。

聞けば、幼少期からずっと家族間で対立が絶えなかったらしい。特に父親とは口をきくことすらほとんどなく、成人してからは実家に寄りつくこともなくなったという。

「そう……洋ちゃんは家族が苦手なんだね……」

「うん、だから自分の家族を持つっていうのに、昔から抵抗があるっていうか、なんかうまくイメージできなくてさ。それに結婚って、相手のことを法律で縛るみたいな感じがして嫌なんだ。無責任に聞こえるかもしれないけど、俺たちが一緒にいる理由は、もっと自由なものなんじゃないかって思う」

口下手な洋史の告白を聞いて、夏海は妙に納得したのを覚えている。

実は夏海自身も、決して家族仲が良いとは言えない。仕事人間の父親は自宅にいる間いつも不機嫌で、母親はどこか冷たく遠い存在だった。そのせいか、洋史の気持ちを無視してまで結婚を望む気にはなれなかった。

「そうだね。別に結婚って形にこだわらなくたって、私は洋史といるだけで十分だよ」

「ありがとう、夏海……」

籍を入れない選択は、考えてみれば夏海にとっても不自然ではなかった。

2人の暮らしは小さな賃貸アパートから始まり、洋史が仕事で昇進して少し広めのマンションへ引っ越したころが、一番穏やかだった。

日常の何気ない出来事を共有しながら、夏海は彼との生活に確かな幸せを感じていた。