夕方のキッチンには、優しい香りが満ちていた。
「洋ちゃん、もうすぐできるからねー」
夏海は鍋をかき混ぜながら、リビングにいる洋史に明るく声をかけた。
今日のメニューは、サバの味噌煮と豚汁。ただし、サバの身はそぼろ状になるまで細かく解し、野菜は汁に溶け込むほど細かく刻み、とろみをつけてある。いずれも舌で潰せるほど柔らかく仕上げたもの。
そう、これは介護食だ。
洋史が病気の進行によってそしゃくや嚥下が難しくなってから、夏海は普通の料理はほとんど作らなくなっていた。自分の食事は、いつもスーパーの出来合いか、洋史の残り物で済ませていた。
「味付け、これで大丈夫かな……」
スプーンでひとさじすくい、塩加減がちょうどよいと確認すると、夏海は完成した料理をプレートに盛り付けていった。
夏海がトレーを持ってリビングに向かうと洋史は返事の代わりにぎこちなく微笑み、静かにまばたきをした。これは「ありがとう」のサイン。発語が上手くできなくなってからは、目の動きや笑顔、ジェスチャーで意思疎通を図ることが増えていた。
「それじゃ、いただきまーす。まず何から食べたい? おかゆ? 豚汁? サバ?……オーケー、豚汁ね」
小さい匙でゆっくりゆっくり彼の口に食事を運びながら、夏海は遠い過去に思いを馳せる。
20年前、洋史と出会ったころは、こんなふうに彼の食事の世話をする日が来るなんて想像もしなかった。いや、たとえ世話をするとしても、それはもっともっと先の話だと思っていたのだ。