<前編のあらすじ>
ひかり(55歳)は、スーパーマーケットでパートをしながら、母・良子(78歳)と2人で暮らしている。良子は認知症を患っていて、足腰も悪く、ひかりの介護が必要だった。
月々の介護費用は、ひかりのパートでまかなっている生活費を圧迫しており、事故で亡くしたひかりの夫の保険金も徐々になくなっていく。
訪問介護に来ている介護士からは生活保護をすすめられるが、決断できずに悩むひかりだった。
●前編:「生活保護を受給すれば…」“貧困ワンオペ介護”に悩む50代女性に、認知症の母親が放った「壮絶な一言」
母の記憶
ある日のパート終わり、ひかりはそのままスーパーで買い物をしていた。母を見てくれている介護士と交代するまで、まだ時間に余裕があったからだ。
値引きシールを探しながら食料品を物色していると、何気なく立ち寄った鮮魚コーナーで思わぬ光景が目に留まった。
丸々と太ったサンマが、驚くほど安く売られているのだ。
ひかりの記憶が確かなら、去年は1尾300円以上したはず。それが半額以下の120円代になっていた。かつては庶民の魚だったサンマも、近年の不漁のせいで高級魚になり、ここ数年はお目にかかることがなかった。
値札を見つめるひかりは、ふと昔のことを思い出す。
「母さんが作ってくれたサンマのかば焼き、懐かしいな……」
遠い記憶の中の食卓には、今は亡き父も一緒に座っていた。
ひかりの父は寡黙な人だったが、母の料理を食べるときだけは、「おいしい」と笑顔を見せていたのをよく覚えている。父はいつも仕事で忙しく、家にいる時間は少なかったが、それでも家族3人で食卓を囲む時は、穏やかな時間が流れていた。
ひかりにとって、食事の時間は家族の絆を感じられる大切な瞬間だった。特に母が作ってくれるサンマのかば焼きは、ひかりのお気に入りだ。
毎年秋になると、母の良子は新鮮なサンマを市場で買ってきて、丁寧にさばき、甘辛いタレでかば焼きを作ってくれたのだ。その香ばしい匂いが台所から家中に広がり、食欲をそそった。食卓にかば焼きが出されると、ひかりはいつも真っ先に箸を伸ばした。焼きたてのサンマは皮がパリパリで、中はふっくらとしており、濃厚なタレと白いご飯の相性は抜群だった。
ひかりにとって、サンマのかば焼きは特別な思い出の味なのだ。
加えて、かば焼きを作っている母を見るのも好きだった。サンマをおろすときの母の手際は見事で、ひかりも何度もその姿を見ながら、「自分もいつかこんなふうにできるようになりたい」と思っていた。
母は調理をしながら、「こうやって骨に沿って包丁を入れるんだよ」「焦がさないようにじっくり焼くのがコツ」と、手とり足とり教えてくれた。その手つきは職人のように無駄がなく、美しかった。
母のかば焼きは、ひかりにとって「家庭の味」そのものだ。今でもその香りを思い出すたびに、父と母と過ごした大切な時間の確かな温度がひかりの胸を満たした。
「久しぶりに母さんに作ってあげようかな……」
ひかりは自然にサンマを手に取っていた。母の味を再現できるかは分からないし、ひかりが作ったものを喜んでくれるとは思えないが、それでも作ってみようと思った。
何もかもが変わってしまった今でも、あの味だけは変わらないのではないかと、どこかで期待している自分がいた。