信じられない母の一言
いつものように自転車で母の待つ家に帰宅し、介護士とバトンタッチしてから、ひかりは早速台所に立った。
買ってきたばかりのサンマをまな板の上に置き、包丁を握ってみたが、魚をさばくのなんて久しぶりだったから、心の中には不安がよぎった。
魚をおろす手は、心なしかぎこちない。昔、母が手際よくやっていた姿を思い出しながら、自分なりにまねてみるものの、どうにもうまくいかないのだ。
焦りとともに、懐かしい記憶がますます遠のいていくような気がした。懐かしさに駆られてサンマを買ってきたが、無駄だったのかもしれない。
そんな時、不意に背後から声がした。
「おろし方がなってないよ」
驚いて振り返ると、そこには母が立っていた。
いつもなら、ぼんやりとした表情で遠くを見つめている母が、この時だけは頼もしい目つきでこちらを見ていたのだ。
「母さん……?」
その瞬間、ひかりは自分の心が震え出すのが分かった。
母の手が、まるで昔のように動き出したのだ。
ひかりから包丁を受け取り、まな板の上のサンマに手を伸ばすと、見事な手際でサンマをおろし始めた母。いつもは、ひかりが誰かすらも分からない母が、この時だけは確かに目の前にいる気がした。
「こうやって、まずは背骨に沿って包丁を入れるんだよ」
母の声が、優しく響いた。ひかりはぼうぜんとしながらも、夢中でその手順を目で追いかけた。あの頃と同じだ。母が教えてくれた通りの動き。その手の動きは、まるで時をさかのぼったかのように正確で、迷いがない。
「はい、これでできた」
母がさばいたサンマは、本当に見事だった。
その様子を黙って見つめていたひかりだったが、気づけば涙が頰を伝っていた。母が、母である時間が、ほんの一瞬だけ戻ってきたのだ。
「何で泣いてるんだい。ほら、裁いたらすぐに焼くよ。調味料だしとくれ」
「うん……っ」
ひかりは砂糖やしょうゆを戸棚から取り出した。これが認知症の「まだら症状」だということは分かっている。だからサンマのかば焼きが母の記憶を呼び覚ましたわけではなく、これは単なる偶然だ。
だが、分かっていても期待してしまう。この世界でたった2人の家族なのだ。