懐かしい顔に再会

「あら、秋田さん。ひっさしぶりねぇ」

ふいに掛けられた声の方向を追うと、かっぽう着姿の中年女性が立っていた。商店街の角にある〈キッチン・ハラダ〉の女将(おかみ)さんは、買い出しにでも出掛けていたのか、駅前のスーパーの袋を両手に提げていた。

「今日はお休み? なんだか疲れた顔してるわね。よかったら食べていきなさいよ」

「あ、ええ。じゃあ、そうしようかな。女将(おかみ)さん、ひとつ持ちますよ」

丈秀は女将(おかみ)さんの手から荷物をもらった。袋はずっしりと重く、何が入っているのかと見てみれば、小麦粉がいくつも締め付けられていた。

「うっかりしてたら、発注し忘れちゃって。まあ、それでもなんとかなるにはなったんだけどね。でももう業者に発注するんじゃ量が多すぎるから、ひとまずはこれで最後までしのいだらいいんじゃないって主人と話して……」

歩いているあいだ、よくしゃべる女将(おかみ)さんに、丈秀は懐かしさを感じていた。思えば独り身になった丈秀がこの街で最も足しげく通ったのが〈キッチン・ハラダ〉だった。味が取り立てておいしいわけでもなく、値段が特別に手頃なわけでもない店に通い続けたのは、女将(おかみ)さんや店主が作り出す、にぎやかで温かい空間に居心地のよさを感じていたからだ。

閑散としている商店街のなかにあって、この〈キッチン・ハラダ〉だけは不思議といつも活気があった。昼時は近所の住民や近隣で働いている人間でにぎわい、夕方には100円払えばおなかいっぱいにご飯を食べられる子ども食堂に学校帰りの児童が訪れる。夜は店主の趣味でもある日本酒を飲みながら、仕事終わりの男たちがくだを巻いて笑いあっている。そんな懐かしい光景が瞬くライトのようによみがえったからこそ、女将(おかみ)さんの言葉は丈秀の耳に引っ掛かった。

「……最後って、どういうことです?」

「ああ、そうよね。秋田さんは久しぶりだものね。実はね、うち閉めることにしたのよ」

「そんな……」

慣れ親しんだ一番奥のテーブル席に座った丈秀は、〈キッチン・ハラダ〉の主人、原田修吾の話を聞き終え、がらりとしている店内を見回した。材料費の高騰や、駅の反対側にできた商業施設のフードコート、親の介護、時代の流れ――修吾いわく、さまざまな要因が複雑に影響しているそうだ。

記憶にある通りならば、夕方4時のこの時間は学校帰りの小学生でにぎわっていることが多かった。平日休みの日、昼すぎに目を覚ました丈秀はよくこの時間に昼飯とも夕食ともつかない食事をさせてもらっていた。今思えば、子供たちが楽しそうに食事をしている風景に、かつて良子と息子の武彦と三人で囲んだ食卓を思い出していたのだろう。

「悪いね、秋田さん。今日のお代はいいからさ」

修吾はそう言って、丈秀の前に唐揚げ定食を置いた。かたちのいびつな唐揚げと糸のように細い千切りキャベツ。添えられたマヨネーズ。申し訳程度に麩(ふ)の入ったみそ汁にたくわん。つややかな白いご飯。丈秀はそのひとつひとつを味わって食べた。やっぱりうまくもまずくもない。どこででも食べられるような、特徴のない味だった。でもだからこそ、〈キッチン・ハラダ〉は丈秀にとって、あるいは近所の子供たちや住人にとって、かけがえのない場所だったのではないだろうか。

「そうだ。子ども食堂はどうなるんですか? 家で飯を食えない子供たちは、どうなるんですか?」

「それもなぁ。店を閉めるんだから当然続けらんないよ。勝手だよな。けっきょく、大人の都合で、子供たちの居場所が奪われるんだから」

 修吾は力なく笑った。

「続ける方法はないんですか?」

「まあ、一番は店の経営難だからどうにも。できることは頑張ったつもりだけど、ただ、やっぱり心残りはあるよな、うん」

それ以上、修吾の言葉は続かず、女将(おかみ)さんも黙ったままだった。丈秀は黙々と唐揚げ定食を平らげた。

「ごちそうさまでした」

「お代はいいって。その代わり、今月いっぱいは店開けてるからさ、また来てよ」

丈秀は修吾にもう一度頭を下げ、立て付けの悪い引き戸を開けて〈キッチン・ハラダ〉を後にした。