母親は2人いた

公平には母親が2人いた。現在の母の亜紀は公平が中学の時に父が再婚相手として連れてきた義理の母で、産みの親である加奈子は再婚の半年前に事故で亡くなっていた。

実母が事故に遭ったとき、公平は博義と2人で山登りに向かっていた。

事故の知らせを聞いてすぐに引き返したが間に合わなかった。病院で対面した母の目が開くことは、もうなかった。

公平は悲しみに暮れた。博義は相変わらず仏頂面だったが、山登りに出掛けなくなったことで彼なりに喪に服しているんだと公平は思った。これからずっと父子ふたり、死んだ母さんとの思い出や独り置き去りにしてしまった後悔と生きていくんだと思っていた。

だがそれから半年がたって、博義は亜紀を連れてきて結婚すると言い出した。

受け入れられるはずがなかった。許せるはずがなかった。博義の無神経さに、公平は吐き気がした。

「再婚のこと、今も怒っているんだろ? 亜紀もそのことをずっと気にしている。自分のせいで俺たちが疎遠になったんじゃないかって」

公平は博義をにらみ付けた。

「それなら、母さんに言っておいて。そういう理由じゃない。母さんは悪くない。悪いのは平気で前の母さんを切った父さんだからって」

雨脚が強くなったのか、ふいに訪れた沈黙を雨音が埋めていった。

「そうだよな。俺が、悪い」

「あんたからしたら、厄介払いができたって思ってるでしょ。仲悪かったもんね、前の母さんとは。いっつもけんかしてたし、事故の前なんてほとんど口も聞いてなかった。だから平気で新しい妻に乗り換えられたんだろ。むしろよく半年も耐えられたよな。本当は葬式帰りにでも婚姻届を出したかったんじゃないの?」

博義は拳を固く握りしめた。公平は殴られるかもと思ったが、殴られる恐怖やそれによる痛みよりも怒りのほうが勝っていた。

しかし身構えた公平を裏切って、博義はふっと拳を緩めた。

「……いや、違う。そうじゃない。けんかばかりだったが、加奈子のことを嫌ったことなんて1度もない」

「へえ、そうかよ。でも、あんたは即座に再婚した。それがすべてだろ」

博義は唇をかみながら、うなずいた。あるいは黙り込んでうつむいたのかもしれない。だがどちらでもよかった。

「じゃあさ、聞かせてくれよ。なんで再婚したんだよ。話したかったんだろ? なら話してくれよ。なんで母さんを放っておいて、新しい女と結婚したんだよ!」

公平は博義の胸座(むなぐら)をつかみ、石壁にたたきつけた。頑健だと思っていた博義の身体は、年相応には衰えていて、想像していたよりもはるかに軽く、頼りなかった。

「……加奈子が死んでも、俺たちの生活が終わるわけじゃない。でもな、俺は仕事があるし、家事炊事は一切できない。恥ずかしいことだが、米すらまともにたけなかった。ずっと加奈子に頼りっぱなしだったんだ」

公平はぼんやりとその頃のことを思い出していた。

たしかに一時期、ほとんど生米みたいな固いご飯を食べたり、レンジでできるパックのご飯やレトルトばかりが並んでいた時期があった。母さんも亜紀も、どちらも料理上手な人だったから、そんな粗末な料理が食卓に並んでいたことなんて忘れていた。

「事故のあとしばらくして、お前、バスケ部を辞めただろ。代わりに洗濯や炊事をやってくれたよな。俺が何もできないばっかりに、お前に苦労をかけちまって……」

公平は博義の胸座(むなぐら)から手を放す。

亜紀と暮らすようになったのは、ちょうど中学2年のときだった。周りが少しずつ受験を意識しだすような時期で、公平も受験勉強を始めた。家から出たい一心だった。けれど受験勉強に集中できたのは、亜紀がいたから――博義が再婚を決めたからだった。

「なんだよ、今更……」

何か言い返してやろうと思ったし、実際に言い返せる不満なんてものはいくらでもあったはずなのに、どんな言葉も喉元でほどけていってしまった。

「ただ、お前の気持ちを無視してしまったことは申し訳ないと思う。きちんと事前に説明をしていれば、良かったなと反省しているよ」

それだけ言って、博義はいつもの無口に戻った。