新興企業の持つ魅力と弱点
転職を考えていた企業との面談は、田中との会食の翌日にあった。吉住には「これからは働く必要がない」と言っていた田中の言葉が強く印象が残っていた。また、「うちの会社は、社員の処遇だけは東証プライム上場の大企業と変わらない」とも言っていた。それ以来、吉住は転職することは間違いではないかと自問するようになっていた。「先代さま」に対しても、田中の話を聞いた後では見方が変わった。実際に、「先代さま」の話し方は、吉住と他の課員たちとでは、微妙に異なることも気が付いていた。「鍵山さんたちも僕のことは認めてくれている。その上で、アドバイスのつもりで言ってくれている……」というように、彼らの言うことに意味を感じると、不思議と嫌な気持ちが薄れた。
そして、決定的だったのは、転職候補先企業との面談の折に、企業年金制度などの福利厚生面について話を聞いてみた時に、相手の担当者が急に態度を硬くしたことだった。「福利厚生制度については、現在構築中です。ストックオプション制度に続いて、企業型DCを導入する計画があります。何分、誕生して間もない企業ですので、吉住さんがいらしているような歴史のある企業と比べると手薄で不十分なものですが、必ずや株式の上場とともに、ご満足いただけるような制度を実現する計画です」と言われた。しかし、その株式上場すら、計画の段階であり、いつ実現するのかは明確ではないのが現実だ。何より、面談していて気持ちが弾むような前向きな気持ちになれない自分がいた。
一時は、「人生最後の大勝負!」と武者震いしていたものだが、それが数週間前の自分だったとは思えないほど遠いことに思えた。吉住は転職を断念した。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。