水仕事で荒れた手をもんで、美咲は静かに深く息を吸い込んだ。視線の先では義母のるり子が広い家のあちこちを見て回っている。るり子が歩くたび、磨いた床がスリッパにたたかれていて、それは叱責のように聞こえた。美咲の肩には力がこもる。けれどどれだけからだを固くして身構えていても、るり子の粘ついたため息はわずかな隙間をこじ開けて美咲の心を踏み荒らしていく。

「水回りがダメね。それと、床はいいけど階段の手すりとソファ。特に手すりは最悪よ。ちゃんと確認したの? 一体何年この家に住んでるのよ。ほらちょっとこっちに来なさい」

美咲はるり子に言われるがまま、廊下に出た。るり子は階段の手すりと壁のあいだにある溝を人さし指でなぞると、その指先をこれ見よがしに突きつける。去年で還暦を迎えた手はきれいに手入れされていて、かさついてささくればかりが目立つ美咲の手とは大違いだった。

「…… すいません」

「別に謝る必要はないの。ちゃんと最低限のことをやってくれればいいんだから」

るり子は突きつけていた人さし指を親指でこすった。赤く塗られた唇の隙間から、「まあ汚い」と声が漏れる。

「床、もう一度磨いておいてね」

るり子はそう言うと出掛けていった。玄関の扉が閉まり、広すぎる家に詰め込まれた沈黙が美咲を押しつぶす。

美咲はそのまま床に座り込んだ。思わず吐き出しそうになったため息すら、この家のどこにも居場所はない。

「孫は女」と分かると態度が一変した義母

看護師だった美咲は病院で知り合った健一と6年前に結婚した。

健一から仕事を辞めて家にいるように言われたときも、時代錯誤だなぁと思いつつ、思っただけで退職することには特別ためらいを感じるようなこともなかった。

もともと安定していて高収入な資格職であることを理由に働いていた看護師だったからだろう。それに結婚を決めたとき、すでに美咲のおなかには赤ちゃんがいたことも仕事を辞める後押しになった。

一人暮らしのアパートで使っていた家具を処分して最低限の荷物だけをスーツケースにまとめて引っ越した美咲を、義両親は笑顔で出迎えた。

健一の家は代々医者の一族。両親と暮らしているという一軒家は、奨学金で専門学校に通っていた美咲からすればお城に見まがうような大きさで都内の一等地に建っていた。体育館のように広いリビングに面を食らったことは今でも鮮明に覚えている。

慣れない環境での生活には緊張感があったけれど、身ごもっている美咲に義両親は優しかった。あまりに丁重な扱いに、もてなされている客人のような気分にすらなった。早くこの人たちの家族の一員になろう。そう思ったときの気持ちは、もう遠い昔の記憶だ。

「そう、それは残念ね」

おなかのなかの赤ちゃんが女の子だと分かったとき、るり子はそう言ってため息を吐いた。あのとき、美咲はうまく笑えていた自信がなかった。すいません。口ではそう言ったけれど、剝がれ落ちていく言葉が自分のものではなくなっていく感覚があった。

それからというもの、義両親の―― 特にるり子の態度は露骨なほどに変わっていった。

「いつまでお客さん気分でいるのよ。あなたももう家族の一員なんだから、家事くらいしてくれないと困るの」

重たいおなかを抱えながら、美咲は家事をこなした。そのあいだ、るり子はまるで看守のように美咲を見張っていて、ことあるごとに口を挟んだ。

「全然汚れが取れてないじゃないの。いったいどんな風に育ったのかしら」

「シャツはこれからクリーニングに出しましょうか」

「濃くて下品な味付けだわ」

すいません。気を付けます。すいません。すいません。すいません。るり子に文句をつけられるたび、美咲は繰り返した。るり子はいつも「本当にダメね」と蛇のような目で美咲を見下した。

夫の健一は仕事で夜も遅く、休日に急なオペで呼び出されることも多かった。妻として健一のサポートをしなくちゃならない。そう思うと悩みを打ち明けることはできなかった。