一人での田植え
翌朝、千佳はまだ薄暗い空の下、田んぼに立っていた。
長靴をはき、帽子を深くかぶり、田植機のエンジンを静かに始動させた。水面に映る空は、青というよりも白く霞んでいた。千佳は田植機のハンドルを握りながら、ゆっくりと泥の中を進んでいく。機械の音が単調に響く中、ふと、あの人と並んで田んぼに入った日を思い出した。泥まみれになりながら笑い合ったあの光景は、どこか映画のワンシーンのように遠く感じられる。
「千佳さーん、ようやっとるねえ」
遠くの畦道から、近所のおばさんが手を振っていた。千佳は作業の手を止めて、帽子をずらして会釈する。
「ひとりでやるのは大変でしょう。誰か手伝いに来たらええのにねえー」
「そうですねー。ありがとうございまーす」
東京で暮らす義兄と義姉にも、義母の容態は知らせたものの、「仕事が忙しい」とそっけなく帰省を断られた。あの人たちにとって、ここはもう「帰る家」ではないのかもしれない。
お昼になって家に戻ると、義母が寝室で横になったまま、こちらをにらんでいた。
「ふん、どうせろくに植えられとらんのやろ。これだから東京生まれは軟弱でいかん……」
「……そうですね、もうちょっとかかりそうです」
千佳が驚いたのは、義母の声が弱々しかったことだ。かつてのような張りがなかった。
結局、例年の倍の時間をかけて、千佳は田植えを終えた。
ぐったりしながら義母の部屋に報告に行くと、彼女は目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。
「お義母さん、田植え終わりました……」
「……ようやったな」
千佳は一瞬、聞き間違いかと思った。だが、義母は確かにそう言った。返事をする前に、彼女はもう眠っていた。まるでその言葉だけを吐き出すために力を使い果たしたかのようだった。