夫の実家で農業をはじめたが

あの日、千佳は東京の駅のホームで、小さなスーツケースを抱えていた。

周囲の雑踏のなか、ひとりだけ違う時間を生きているような心地がしていた。大学時代に出会った修三と結婚し、彼の実家がある地方へ移り住むことになったのだ。聞けば、彼は父の死後、兄姉に代わって米農家を継ぐ決意を固めたという。未経験者が農業なんて無謀ではないかと言うと、彼は「なんとかなるだろう」と笑っていた。

修三は、朗らかで楽観的な性格をしていた。生真面目な千佳は、その明るさに救われることが多かったし、彼の家族とならば上手くやっていけると信じていた。

だが、義実家での暮らしは、思っていた以上に過酷だった。

「あーあー、味噌汁の野菜はその切り方じゃダメでしょうに。これだから都会の人は、何にもわかってないんだから」

「すみません……やり直します」

「もういいもういい、私がやればいいんだから」

義母の登世子の言葉にはいつも棘があった。いつまでも子どもができないことも、千佳の「至らなさ」のひとつとして扱われた。

「せっかく修三が戻ってきてくれたのにねえ……跡継ぎがいないんじゃ、うちはもうは終わりだよ。はい、もうお先真っ暗」

「はあ……すみません……」

どんなに腹が立っても、言い返したことは一度もない。年長者を敬うようにと躾けられて育った千佳は、ただ静かに耐えることしかできなかった。

修三は、そんな千佳と義母の関係に薄々気づいていたと思う。だが、連れ合いを亡くした義母には、どうも強い態度を取れないようだった。寝る前に「ごめんな」とだけつぶやくその背中が切なかった。