結婚は破談になったが…

「今までありがとうございました。それと、ご迷惑をおかけしてすいません」

最終出勤日、荷物をまとめ終えた夏子は上司に深く頭を下げた。上司はやや引きつった笑顔で、夏子に「お疲れさま」と声をかけた。

あれから間もなく、夏子と陸人の関係は社内で明るみになった。もちろん夏子が自分でリークしたわけではない。だがどの会社にも、世界にも、うわさ話や他人の色恋に異常な情報網を持っている人間というのはいる。ただそれだけのことだった。

陸人の浮気を知った百川製鉄側は当然ご立腹。結婚は破談になり、夏子との関係もうまくいかなくなり、陸人はひとまず休職扱いになった。うわさが広まったことでいづらくなったため、夏子も会社を辞めることにした。

自業自得と言えばそれまでだが、かわいそうにも思う。会社のためだと望まない結婚を親から強いられ、なまじ財力がある結果、内縁であっても自分なら別の女を幸せにできるはずだと思い込んだ。

陸人は悪い人ではない。陸人が向けてくれた言葉にもうそはなかった。ただ少し傲慢(ごうまん)だった。自信に満ちあふれた陸人から、一度も謝罪の言葉がなかったことがその証拠だ。

夏子は職場を後にして、クリスマスのイルミネーションに彩られた夜のオフィス街を歩く。寂しい気持ちはあったが、これでよかったのだと思っている。

「あれ、夏子」

信号が点滅を始めた横断歩道を渡ろうと夏子が小走りをしたところで、ふいに呼び止められた。立ち止まって声のほうを見ると、相変わらず安っぽいスーツを着ている健太の姿があった。信号は赤に変わった。

「久しぶり」

「うん、久しぶり」

「最近どう?」

「それなりかな。健太は?」

「まあ、俺もそれなり」

「あのさ――」

健太が言った言葉は、通過していった大型トラックの風に遮られて、よく聞こえなかった。健太は鼻のあたまをかいていた。照れるときによくやる、健太の癖だった。

健太と過ごした平たんで穏やかな時間も、陸人と過ごした刺激的で甘い時間も、どちらもかけがえのないものだった。けっきょく夏子はいつだってないものねだりで、となりの青々とした芝生をうらやんでいるだけなのかもしれない。間もなく信号が青に変わった。

「それじゃ、私行くね」

それだけ言って歩き出した。健太は相変わらず煮え切らない態度で、夏子のことを見送った。横断歩道を渡り切って、振り返ろうかとも思ったが、やっぱりやめた。

別に今更傷ついたりもしないし、昔の恋愛のノスタルジーに浸ったりもしない。来年で30歳。もうそういう恋に焦がれるだけの自分は終わりにしよう。しばらくは前だけを見て、歩いていくのもいいかもしれない。

だって今年ももうすぐ終わるのだから。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。