愛人になれってこと?
一緒に住んでいる、とは言っても、出張も多いうえに経営者たちが集まるようなサロンなどへも足しげく通い、仕事や社交の都合で実家に戻ることも多い陸人は帰ってこないことも珍しくない。だからその日も陸人が帰ってきたのは3日ぶりで、夏子は久しぶりに2人で過ごせる夜を心待ちにしていた。
夏子が腕によりをかけた料理を食べ、30畳はあるだろう広いリビングで大きなソファに寄り添って腰かける。有名なデザイナーが手掛けたというガラステーブルには年代物のワインとフランスから直接取り寄せたチーズが置いてある。
「学生時代の友達ね、この前、赤ちゃん生まれたんだって。ほら、かわいくない?」
夏子は陸人の胸に寄りかかりながらスマホを見せる。画面には白い布にくるまれた赤ちゃんが映っている。
「へぇ、かわいい。夏子は本当に子供が好きだよな」
陸人のきれいで厚みのある手が夏子の髪をなでる。普段と変わらない様子の陸人だったが、夏子はこれまでと同じようにその愛情を無批判に受け入れることができない。なんとなく陸人とのあいだに思い描いていた将来は、もう取り上げられ、かすみの向こう側へと遠のいていってしまったような気分だった。
「あのさ、陸人」夏子は声の震えを抑えて口を開く。「私たち、これからどうなるのかな?」
陸人はすぐには答えなかった。夏子の髪をなでるのを止め、肩に回していた腕をどけ、夏子に向かい合った。
「夏子のことは、俺が必ず幸せにするよ。夏子は何も心配しなくていい。俺に任せておけばいいんだ」
陸人は夏子を抱きしめようと腕を伸ばす。しかし夏子はそれを拒んだ。
「私、聞いちゃったの。陸人が結婚するって。いいなずけがいるって。本当なの?」
陸人はやはりすぐには答えず、小さくため息を吐いた。
「話そうと思ってたんだけど、言えなかった。でも親が決めたことだよ。俺の意思じゃない。俺が愛してるのは夏子だけだ」
陸人は手で拳を握る。きっとその言葉に込めた夏子への愛はうそではないのだろう。だがそれはつまり、結婚もいいなずけもまぎれもない現実であることの証明でもあった。
「でも、結婚はするんでしょう? 私はどうなるの?」
「どうもしない。結婚させられたってかたちだけだよ。俺は夏子を愛してる。何ひとつ不自由なんてさせない。子供だって産んで育てればいい。必ず幸せにする。約束するよ」
陸人は真っすぐな言葉を並べる。夏子には一体それをどう受け止めたらいいのかが分からなかった。
「私に、愛人になれってこと?」
やがてなんとか言葉を絞り出してはみたけれど、自分で言っていてむなしくなった。きっと陸人が家を空けることが多かったのは、単純にいいなずけと自分との二重生活を営んでいたからなのだろう。
「これまでと何も変わらない。俺が愛してるのは、世界でたった1人、夏子だけなんだ」
陸人は半ば強引に夏子のことを抱きしめた。抵抗する気力すら湧かなかった。こんな風になるために、自分は陸人を選んだんだろうか。陸人の甘い匂いがする香水に包まれながら、夏子の頰を一筋の涙が伝う。耳元で幸せが崩れていく音がしていた。