早朝の静けさの中、フライパンに薄く流しいれた油の跳ねる音が小さくパチパチと響いている。安美は、そこに溶き卵をゆっくりと注いでかき混ぜながら、ふと窓の外に視線をやった。リビングの大きな窓ガラスには、細かい水滴がびっしり。昨夜から降り続く雨は一向にやむ気配がなかった。
灰色の空は重く垂れ込め、どこか息苦しさを感じる。フローリングの床では、先日買ったばかりの除湿機がうなり声を上げながら目に見えない湿気と懸命に闘っているのが見て取れたが、この悪天候には到底太刀打ちできそうもなかった。
「あぁ、また雨か……」
今日も洗濯物を外に干せないと、安美はキッチンで人知れずため息を吐いた。日本列島をすっぽり覆う秋雨前線の影響で、ここ数日はずっとこんな天気が続いていた。台風も近づいているという予報を安美はテレビで見ていたが、たとえそのニュースを知らなくても、巨大な低気圧の気配は肌で感じ取れたに違いない。ジメジメとした空気は家の中にまで浸透し、床も壁もどこか湿気をはらんでいるような気がした。こうも雨ばかりが続くと、心もからだもずんと重くなったように感じる。
「あー、今日の髪型終わってるわー。最近、湿気(しっけ)ヤバすぎなんだけど」
切り分けた卵焼きを弁当箱に詰めていると、14歳の息子・俊彦がぶつくさ言いながらリビングに入ってきた。安美は会社員の夫と中学生の息子の家族3人で郊外の一軒家に暮らしている。夫は商社勤めで忙しく、残業や出張も多いため、基本的に家のことは専業主婦の安美が担当していた。今朝も夫が泊まりがけで県外へ出張中のため、家には安美と俊彦の2人きり。この春中学2年生になった俊彦は、毎朝洗面台を独占してはヘアセットにいそしむのが日課になっていたが、ここ数日は湿気の影響で連戦連敗の様子だった。どうやら秋雨前線は主婦である安美だけでなく、思春期の息子にとっても手ごわい天敵らしい。
「おはよう、俊彦。ヨーグルトに入れるのリンゴでいい?」
「あ、うん。ありがと、母さん」
安美はそんな俊彦を見て苦笑しながら、冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、リンゴを切って盛り付けた。そしてしきりに前髪を気にしている俊彦の前にトーストとヨーグルトを置くと、安美はその日何度目かのため息を吐きながら自分も椅子に座った。
「こんな天気、いつまで続くんだろうね……」
「うぅん……」
窓の外の雨を見つめながら独り言のようにつぶやいた安美に、俊彦は相づちともため息ともつかない気の抜けた声を出した。安美は息子のつれない反応を特に気にすることもなく、自分用に入れたコーヒーにミルクを注いでかきまぜた。
お互いが黙り込んでしまうと、ダイニングに聞こえるのは外の雨音だけとなる。いつも通りの親子の静かな朝食の時間だ。しかし、安美はトーストをかじろうとしたとき、ふとある異変に気が付いた。目の前に座っている俊彦の腕に、小さな赤い発疹ができている。
「俊彦、その腕どうしたの? 虫刺され?」
俊彦は自分の腕をチラッと見てから、軽く肩をすくめて言った。
「わかんない。なんか昨日からかゆいんだよね。でもまあ、大したことないよ」
「ふうん、どこか外で刺されたのかな? 一応、薬だけ塗っておこうか」
そう言って安美は救急箱から市販の虫刺され薬を取り出して、俊彦へ渡す。
きっと通学中にやぶ蚊にでも刺されたのだろう。安美は虫刺されのことは大して気に留めず、トーストをかじりながら再び意識を雨の降る外へと向けた。