固い決意

夫が帰宅してから、今後のことについていろいろと話し合った。瞳は、直太朗が高熱を出したときどんなに不安だったかを丁寧に夫に伝えた。夫は瞳の話を遮ることなく聞いてくれた。いつになく真剣な表情を浮かべている。

「平日は仕事で家にいなくて、休日は登山で家にいないお父さんって、直太朗にとってどんな存在なの? それって、もうお父さんじゃなくない?」

ずっと心にたまっていた気持ちを吐き出した。子どもが欲しいと強く主張したのは自分だ。

これまで、子育てについて夫になにか言いたくなっても「子どもが欲しいと言ったのは自分だし……」と遠慮してしまっていた。

しかし、自分は直太朗の母親なのだ。直太朗の幸せのために夫に文句を言うのは、母親の義務ではないだろうか。これまで、自分はその義務をしっかりと果たしてこなかった。直太朗のためにも、これ以上夫に遠慮するわけにはいかない。

そんな決意が夫にも伝わったようだった。何も言わず、じっと瞳の話を聞いている。腕を組み、何かを考えているようだった。

そういえば「子どもが欲しい」と相談したときも今みたいに腕を組んでいたっけ。

リビングの隅には、今回の登山で夫が使った大きなザックが置いてある。かなりハードな登山だったらしく、汚れが目立った。

腕を組んでいる夫は天井を見上げ、大きく息を吐いた。そして、まるで自分に言い聞かせるように2、3度静かにうなずいた。

「分かった。もう山には行かないよ」

夫はそう言った。学生時代からずっと続けていた趣味をやめると宣言したのだった。

「瞳が登山を許してくれてたことに甘えすぎてたね。瞳がちょっと愚痴を言えば『話が違うじゃん』って言い返してたけど、ちょっと大人げなかった。家族につらい思いをさせながら山に登っても面白くないし、登山はきっぱりやめるよ」

弁の立つ夫だが、守れない約束を軽はずみにするようなタイプではない。それが分かっているからこそ、瞳は夫の決意に驚いた。

夫が、登山ではなく直太朗と自分を選んでくれたことが本当にうれしかった。

しかし「ありがとう」と言う気にはなれなかった。

ここでお礼を言ってしまっては、負けたような気がする。直太朗のためにも、ここは厳しい妻でいようと決めた。

「分かった」

瞳は静かにそう言った。怒りと喜びと固い決意が入り交じる中、他に言葉が見つからなかったのだった。

サッカーボール

登山をやめると決断した夫は、持っていた登山道具を全て売り払った。登山靴、ストック(登山用のつえ)、手袋、ザックなどが家の中から消えた。

週末になると、夫はザックを背負って山にいく代わりに、サッカーボールを持って直太朗と近所の公園に行くようになった。最近、直太朗はボールを上手に蹴れるようになったらしい。

サッカーボールは、登山道具を売ったお金で夫が直太朗に買ってくれたものだった。

夫には厳しくあろうと思っていた瞳だったが、登山道具を売ったときの夫の顔があまりにも寂しそうで、なんだか自分が悪いことをしたような気持ちになってしまった。

登山道具を売ったお金で直太朗のためにサッカーボールを買ったのは、きっと夫なりの息子にたいする罪滅ぼしなのだろう。

直太朗が夫と一緒に公園で楽しそうにサッカー遊びをしてくれるのが救いだった。

最大の趣味を断念した夫が落ち込んだりしないか心配だったが、それは杞憂(きゆう)のようだった。夫は意外と子育てを楽しんでくれているようだ。

玄関のドアが開く音がした。夫と直太朗が公園から戻ってきたのだった。

「ただいまー」

4歳になったばかりの息子の元気な声が家中に響き渡る。渡った。

その声を聞いた時、瞳は『直太朗が大きくなったら、夫と一緒に山に登ってくれたらいいな』と思ったのだった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。