過去からは逃げられない

人生山あり谷あり。捨てる神あれば拾う神がいる。

山内栄悟(42歳)はずっとどん底にいた。出来心でした1度きりの浮気がばれ、妻は息子を連れて出て行った。何度も送った謝罪メールや電話に返ってきたのは離婚届で、1年以上もかかった調停の末、山内は離婚した。

円形脱毛症になり、夜眠れなくなり、街で仲の良さそうな家族を見るだけで手が震えた。適応障害と診断され休職。復帰のめどが立たず、やんわりと退職を促されたから会社を辞めた。貯金を使って立ち上げた事業はうまくいかず、ビジネスローン、銀行の融資、消費者金融での借金と負債ばかりがかさんだ。

逃げるしかない、と思った。

保証人にしていた何人かの友人には申し訳ないと思ったし、ほとんど慰謝料と養育費を払えていない妻たちにも面目ないと思っていた。

だが人生をやり直すにはそれしかなかった。たとえ無責任だと後ろ指をさされ、非道だとそしりを受けても、それだけが自分を救う方法だと思った。

そして結果、山内の人生は好転した。

すべて捨てて誰も自分を知らない町へ行き、雨に打たれているところをある女性に拾われた。彼女は訳ありで過去をろくに話せない男に、温かいコーヒーを入れてくれた。彼女——理子は町の外れでカフェを営みながら中学生の息子を育てる未亡人だった。この人の力になろうと、山内は思った。

山内はカフェで働き始めた。夜遅くまでコーヒーの入れ方を研究し、何度も料理を練習した。

「うん、だいぶいいんじゃないか」

店の奥の厨房(ちゅうぼう)でコーヒーを試飲していた山内は息を吐いた。

外では強い雨が降っている。理子と出会ったのも、今日みたいな雨が降っている夜だった。

「それじゃあ、私そろそろ帰るから。あんまり根詰めちゃだめだよ?」

「ありがとう。俺も片づけしたら帰るよ」

理子と息子の拓司とは一緒に住んでいる。まだ結婚はおろか、正式に付き合っているわけでもなかったが、いつかそうなったらいいと山内は思っている。

入れたてのコーヒーをもう一度味わう。これなら常連客も納得してくれそうな味だ。

山内は片づけを始める。最初は手間取っていて危なっかしかった皿洗いも、今ではもうだいぶ手慣れたものだ。

扉が開き、鈴の音が聞こえた。理子が戻ってきたのかと思い、山内は作業の手を止める。

「どうしたー? 忘れ物?」

ぬれた手をエプロンで拭い、店内へ戻る。明かりの消えた薄暗い店の入り口に、びしょぬれの人影があって、息をのむ。

「……すいません。今日はもう閉店で」

「久しぶりだな」

低くうなるような男の声で言って、人影はかぶっていたフードを外す。瞬間、すぐ近くで走った稲光が窓越しに突き刺さり、店内の薄暗さを引き裂いていく。

「お前、高橋か……!?」

山内は後ずさる。痩せこけ、無精ひげを蓄え、変わり果ててしまった親友が立っていた。

「随分探したよ。山内、会いたかった」

雨よりも冷たく響く高橋の声に山内は悟る。過去から逃げることは決してできないのだと。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。