小汚い中年の男

一枚の紙切れは真理たちの結婚生活の致命傷になった。

真理には太一を訴える選択肢もあったけれど、もう金輪際自分の人生に関わってほしくなかったから訴えることはしなかった。離婚してしばらく、太一が自己破産したらしいと風のうわさで聞いた。

ちなみにネックレスは次の日に太一に取りに行かせて無事戻ってきている。ネックレスを取り戻すために太一は新たにキャッシングをしたらしいけれど、それはもう真理のあずかり知るところではない。

少し落ち込んだ時期もあったけど、今は離婚して清々している。

とはいえ恋愛も結婚ももうまっぴらだ。仕事に全力で取り組み、休みのたびにキャンプに出掛け、ビール片手にスポーツバーでスポーツ観戦を楽しむ。そういう独り身の生活に満足している。

相変わらずメイクは苦手だ。けれど最近は自分なりのコツをつかんだのか、少しずつ納得のいく出来栄えになってきた、気がする。太一のような知識や技術はないけれど、アクセサリーをつけるときと一緒でメイクをすると少し背筋が伸びて、今日も一日頑張ろうという気分になれる。

「真理、メイク変えた?」
「分かる? ちょっとアイライン長めに引いてみたの」
「いいじゃん、似合ってる」
「ありがと」
「いいなぁ、どんどんきれいになって。うちなんて旦那は帰ってきても何もしないし、この子はやんちゃ坊主だし、メイクなんてテキトーよ」

穏やかな空気のテラス席で、香苗は1歳半になる息子の涼を膝に乗せながら愚痴を言う。けれど息子を見るまなざしは幸せな母親そのものだ。

真理には真理の、香苗には香苗の、それぞれの幸せのかたちがある。

食事を終えた真理たちは割り勘で会計を済ませ、スプリングコートを羽織って、少し街を歩いた。

「あれ……」

真理は立ち止まって振り返る。目で追った後ろ姿はすぐに、行き交う人たちに紛れて見えなくなってしまう。どうかした、と香苗がベビーカーを止めて声を掛けた。

「ううん、何でもない」

真理は再び歩き出す。

太一とすれ違ったような気がした。けれどどうしてその人を太一だと思ったのかは分からない。だって肌は荒れ、洋服は安物。美容にこだわっていたころの太一の面影は全く残っていなかった。年相応の小汚い中年の男だった。

太一もわたしに気づいただろうか、と真理は思った。

できれば気づかないでいてほしい、とも思った。

春の穏やかな風が吹く。真理の胸にはアンティークゴールドの静かな光がきらめいている。見上げた空は雲一つない青だった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。